「実」というのは伝道による改宗者のこと? マタイ21:41~43
「実を結ぶ」ということは、
「熱心に伝道して改宗者を生み出す」ことだと思っている人が少なくないと思います。
その場合、30倍、60倍、100倍の実というのは、
多くの改宗者を生み出すことを意味することになり、
伝道が得意でない人は、実を結ばないクリスチャンということになってしまいます。
しかしギリシャ語の単語を知れば、そうではないことがわかります。
マタイ21:41~43
一般的には「(植物の)実」を意味し、
比喩的には「行い、行為、結果」を意味します。
上記の譬え話について言うと、訳語としては一般的な意味で訳されていますが、
背後に比喩的な意味が暗示されています。
41節で「悪党ども」と呼ばれているのは、メシアを信じないイスラエルのことです。
一方、「別の農夫たち」とは、のちに福音を聞くことになる異邦人のことです。
43節の「実を結ぶ国民」も異邦人ことで、
「実を結ぶ」という表現は、メシア信仰を持つようになることを指しています。
「カルポス」という言葉は、その行いのほうも暗示しているわけです。
ですからイエスさまが「実を結ぶ」と言うとき、
それは、真の信仰を持ち、それに伴う行いをすることを意味しているのです。
この見解が正しいかどうかを確かめるために、
他の箇所に当てはめて、意味が通るかどうか試してみましょう。
わたしはぶどうの木で、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人の中にとどまっているなら、そういう人は多くの実を結びます。わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないからです。
あなたがたが多くの実を結び、わたしの弟子となることによって、わたしの父は栄光をお受けになるのです。
「そういう人は多くの実を結びます」 →
「そういう人は豊かな信仰を持ち、それに伴う行いをするようになります」
「あなたがたが多くの実を結び…わたしの父は栄光をお受けになるのです」 →
「あなたがたが豊かな信仰を持ち、それに伴う行いをすることによって、
わたしの父は栄光を受けるのです」
同様に、マルコ4:14~20:
種蒔く人は、みことばを蒔くのです。…
いばらの中に種を蒔かれるとは…みことばを聞いてはいるが、世の心づかいや、富の惑わし、その他いろいろな欲望がはいり込んで、みことばをふさぐので、真の信仰を持つことがなく、それに伴う行いをしません。
良い地に蒔かれるとは、みことばを聞いて受け入れ、三十倍、六十倍、百倍の信仰による行いをする人たちです。
●まとめ
このように、「実」というのは伝道だけとは限りません。
とりなしの祈りでもいいし、聖書の学びでもいいし、
賛美や証、その他、何らかの奉仕でもいいし、仕事や家事、育児でも良いのです。
私たちがイエスさまへの信仰のゆえに行うすべての事柄が、
「実」であるということを覚えてください。