携挙は再臨の日に起こる 前編
ゼカリヤの預言によれば、「主の日」は一定の期間ではなく「ただ一つの日」です。
携挙が再臨と同じ日に起こることがわかります。
ゼカリヤ14:1~7
見よ。主の日が来る。その日、あなたから分捕った物が、あなたの中で分けられる。
14:2 わたしは、すべての国々を集めて、エルサレムを攻めさせる。町は取られ、家々は略奪され、婦女は犯される。町の半分は捕囚となって出て行く。しかし、残りの民は町から断ち滅ぼされない。
14:3 主が出て来られる。決戦の日に戦うように、それらの国々と戦われる。
14:6 その日には、光も、寒さも、霜もなくなる。
14:7 これはただ一つの日であって、これは主に知られている。昼も夜もない。夕暮れ時に、光がある。
エハッドは次の箇所でも使われており、文字通りの1日を意味しています。
創世記1:5
神は、この光を昼と名づけ、このやみを夜と名づけられた。こうして夕があり、朝があった。第一日。
●携挙への適用
主の日は「ただ一つの日」という定義に従い、次の箇所を見てみましょう。
1テサロニケ4:15~5:9
主の言葉に基づいて次のことを伝えます。主が来られる日まで生き残るわたしたちが、眠りについた人たちより先になることは、決してありません。
4:16 すなわち、合図の号令がかかり、大天使の声が聞こえて、神のラッパが鳴り響くと、主御自身が天から降って来られます。すると、キリストに結ばれて死んだ人たちが、まず最初に復活し、
4:17 それから、わたしたち生き残っている者が、空中で主と出会うために、彼らと一緒に雲に包まれて引き上げられます。このようにして、わたしたちはいつまでも主と共にいることになります。…
5:1 兄弟たち。それらがいつなのか、またどういう時かについては、あなたがたは私たちに書いてもらう必要がありません。
5:2 主の日が夜中の盗人のように来るということは、あなたがた自身がよく承知しているからです。
5:3 人々が「平和だ。安全だ。」と言っているそのようなときに、突如として滅びが彼らに襲いかかります。ちょうど妊婦に産みの苦しみが臨むようなもので、それをのがれることは決してできません。
5:4 しかし、兄弟たち。あなたがたは暗やみの中にはいないのですから、その日が、盗人のようにあなたがたを襲うことはありません。…
5:9 神は、私たちが御怒りに会うようにお定めになったのではなく、主イエス・キリストにあって救いを得るようにお定めになったからです。
この話の流れの中で5:2に来ると、
「主が来られる日」は「主の日」と言い換えられています。
ですから「主の日」というのは、「携挙が起こる日」だと言えます。
また4節で「主の日」は、「その日」と言い換えられていますが、
「その日」というのは、3節の人々が「滅びに襲われる日」のことです。
クリスチャンは御怒りに会うように定められていませんから(9節)、
携挙されて滅びを免れます。
そこで、「滅び」に襲われるのは不信者であることがわかります。
しかしここで、疑問が生じます。
なぜ不信者は、携挙の日に滅びに襲われるのでしょうか?
レフトビハインドでは、携挙が起きても不信者が直ちに滅びることはありません。
しかしゼカリヤは、「主の日」は地上再臨の日だと言っていますから、
「その日」というのが再臨の日であるなら、話が通ることになります。
実際、1テサ4:15の「主が来られる日」は、
再臨を意味するパルスィーアという言葉の訳語です。
口語訳聖書は、こう訳しています。
1テサロニケ4:15
わたしたちは主の言葉によって言うが、生きながらえて主の来臨の時まで残るわたしたちが、眠った人々より先になることは、決してないであろう。
そういうわけで、これまでの「主の日」の定義をまとめると次のようになります。
「主の日」=「携挙の日」=「地上再臨の日」
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