ダビデの日記

自分が学んだ聖書の教えに関するブログ

癒された盲人は一人か二人か? マタイ20章、マルコ10章、ルカ18章


 引き続き、新約聖書における「聖書の現象」に関する記事を書きます。
 
「聖書の現象」というのは、キリスト教進歩主義やリベラルから「聖書の矛盾」として批判される聖書箇所のことを言います。

 
マタイ20:29~34 
彼らがエリコを出て行くと、大ぜいの群衆がイエスについて行った。30 すると、道ばたにすわっていたふたりの盲人が、イエスが通られると聞いて、叫んで言った。「主よ。私たちをあわれんでください。ダビデの子よ。」31 そこで、群衆は彼らを黙らせようとして、たしなめたが、彼らはますます、「主よ。私たちをあわれんでください。ダビデの子よ。」と叫び立てた。32 すると、イエスは立ち止まって、彼らを呼んで言われた。「わたしに何をしてほしいのか。」33 彼らはイエスに言った。「主よ。この目をあけていただきたいのです。」34 イエスはかわいそうに思って、彼らの目にさわられた。すると、すぐさま彼らは見えるようになり、イエスについて行った。
 
マルコ10:46~52 
彼らはエリコに来た。イエスが、弟子たちや多くの群衆といっしょにエリコを出られると、テマイの子のバルテマイという盲人のこじきが、道ばたにすわっていた。47 ところが、ナザレのイエスだと聞くと、「ダビデの子のイエスさま。私をあわれんでください。」と叫び始めた。48 そこで、彼を黙らせようと、大ぜいでたしなめたが、彼はますます、「ダビデの子よ。私をあわれんでください。」と叫び立てた。49 すると、イエスは立ち止まって、「あの人を呼んで来なさい。」と言われた。そこで、彼らはその盲人を呼び、「心配しないでよい。さあ、立ちなさい。あなたをお呼びになっている。」と言った。50 すると、盲人は上着を脱ぎ捨て、すぐ立ち上がって、イエスのところに来た。51 そこでイエスは、さらにこう言われた。「わたしに何をしてほしいのか。」すると、盲人は言った。「先生。目が見えるようになることです。」52 するとイエスは、彼に言われた。「さあ、行きなさい。あなたの信仰があなたを救ったのです。」すると、すぐさま彼は見えるようになり、イエスの行かれる所について行った。
 
ルカ18:35~43
エスがエリコに近づかれたころ、ある盲人が、道ばたにすわり、物ごいをしていた。36 群衆が通って行くのを耳にして、これはいったい何事ですか、と尋ねた。37 ナザレのイエスがお通りになるのだ、と知らせると、38 彼は大声で、「ダビデの子のイエスさま。私をあわれんでください。」と言った。39 彼を黙らせようとして、先頭にいた人々がたしなめたが、盲人は、ますます「ダビデの子よ。私をあわれんでください。」と叫び立てた。40 イエスは立ち止まって、彼をそばに連れて来るように言いつけられた。41 彼が近寄って来たので、「わたしに何をしてほしいのか。」と尋ねられると、彼は、「主よ。目が見えるようになることです。」と言った。42 イエスが彼に、「見えるようになれ。あなたの信仰があなたを直したのです。」と言われると、43 彼はたちどころに目が見えるようになり、神をあがめながらイエスについて行った。これを見て民はみな神を賛美した。
 
 
二つの相違点
 
①盲人の人数
 
 マタイの箇所では、「ふたりの盲人」が癒やされたと書かれていますが、マルコとルカのほうでは一人だと書かれています。
 
 盲人は一人なのでしょうか、それとも二人なのでしょうか?
 
 
癒しが起きた場所
 
 また、マタイの箇所では、主イエスの一行が「エリコを出て行くと」盲人たちがいて、癒されたと書かれていますが、
 
 ルカの箇所では、「イエスがエリコに近づかれたころ」、盲人が物乞いをしていたと書かれています。
 
 癒やしが起きた場所は、エリコから出たところだったのでしょうか、それともエリコに入るところだったのでしょうか?
 
 
解決案
 
  Defending Inerrancyでは、盲人の人数について次のように説明されています。
 
 
 マルコは癒やされたのが一人であるかのように記録しているが、マタイが述べているように、癒された者が二人いたことを否定しているわけではない。
 
 まず第一に、マルコは、癒やされた盲人が一人だけだと言明しているわけではない。
 
 一方、マタイは二人いたと述べていおり、二人いるなら必ず一人はいることになる。必ずである!
 
 マタイは、8章でも悪霊憑きが二人いたと言っている。一方、マルコとルカは一人だと言っている(マタイ82834)。
 
 今回の箇所でもマタイは、マルコとルカが一人だと言っている盲人を二人だと言っている。
 
 更にマルコは、盲人の名前がバルテマイで、父親の名前がテマイだとも言っている(マルコ1046)。
 
 このことからわかるのは、マルコが個人的に知っていた人物を話題の中心にしているということだ。
 
 仮に、二人の人が合衆国大統領から褒賞のメダルを授与されることになったとしよう。
 
 二人のうちの一人があなたの友人だったら、あなたがそのことを話題にするとき、自分が知っている者のことだけを話したとしても、それは理解できることである。
 
 
 癒しが起きた場所については、こう説明されています(Defending Inerrancy)
 
  
 これらの箇所は、2つの出来事を描写しているのはないかとする見解がある。
 
 マタイとマルコは、癒やしが起きたのは、イエスがエリコを出てからだと言明している(マタイ2029、マルコ1046)。
 
 一方、ルカは、イエスがエリコに入るときに一人の盲人が癒されたと書いている。
 
 これは、通常のサイズの「群衆」がそこを通ったとルカが書いていることから、妥当性がある(1836)。
 
 他方、マタイ(2029)とマルコ(1046)は、「大ぜいの群衆」「多くの群衆」がイエスと一緒にいたと述べている。
 
 エリコに入る際に起きた癒しの噂が広まったと考えるなら、イエスがエリコを去るときまでには群衆の人数が増えていたことになるので、この説明には合点がいく。
 
 二つの癒しが起きたと考えた場合、二人の盲人が反対側の出口でイエスに癒しを求めたことにも説明がつく。
 
 恐らく、最初に癒された盲人が、素早く別の盲人のところに行って、自分が癒されたことを伝えたのだろう。
 
 あるいは、反対側の出口でまったく別の盲人たちがいつも通り物乞いをしていて、イエスの一行に出会ったのかもしれない。
 
 いずれにしても、この箇所には解決できない問題点は存在しない。二つの説明は、まったく矛盾することなく理解できる。
 

 終わり

 
Defending Inerrancyは、ノーマン・ガイスラー博士が編集主幹を務める聖書の無誤性を主張する団体です。ガイスラー博士は「聖書の無誤性に関するシカゴ声明」の中心的編集者でもありました。