宮清めとイチジクへの呪いの順番 マタイ21章、マルコ11章、ルカ19章
今回は、宮清めとイチジクの木が枯れたエピソードに絡む食い違いについてです。
米国で問題にされているのは、宮清めとイチジクを呪った順番です。
マタイによると、主イエスがイチジクを呪うのは宮清めの後ですが、マルコによると宮清めの前です。
この食い違いをどう考えればよいのでしょうか?
●検証
マタイ21:10~19、23
12 それから、イエスは宮にはいって、宮の中で売り買いする者たちをみな追い出し、両替人の台や、鳩を売る者たちの腰掛けを倒された。
13 そして彼らに言われた。「『わたしの家は祈りの家と呼ばれる。』と書いてある。それなのに、あなたがたはそれを強盗の巣にしている。」
14 また、宮の中で、盲人や足なえがみもとに来たので、イエスは彼らをいやされた。
16 そしてイエスに言った。「あなたは、子どもたちが何と言っているか、お聞きですか。」イエスは言われた。「聞いています。『あなたは幼子と乳飲み子たちの口に賛美を用意された。』とあるのを、あなたがたは読まなかったのですか。」
17 イエスは彼らをあとに残し、都を出てベタニヤに行き、そこに泊まられた。
18 翌朝、イエスは都に帰る途中、空腹を覚えられた。
19 道ばたにいちじくの木が見えたので、近づいて行かれたが、葉のほかは何もないのに気づかれた。それで、イエスはその木に「おまえの実は、もういつまでも、ならないように。」と言われた。すると、たちまちいちじくの木は枯れた。
23 それから、イエスが宮に入って、教えておられると、祭司長、民の長老たちが、みもとに来て言った。「何の権威によって、これらのことをしておられるのですか。だれが、あなたにその権威を授けたのですか。」
マタイ
Day 2 イチジクを呪う→イチジクがたちまち枯れる→宮での教え
マルコ11:11~21
12 翌日、彼らがベタニヤを出たとき、イエスは空腹を覚えられた。
13 葉の茂ったいちじくの木が遠くに見えたので、それに何かありはしないかと見に行かれたが、そこに来ると、葉のほかは何もないのに気づかれた。いちじくのなる季節ではなかったからである。
14 イエスは、その木に向かって言われた。「今後、いつまでも、だれもおまえの実を食べることのないように。」弟子たちはこれを聞いていた。
16 また宮を通り抜けて器具を運ぶことをだれにもお許しにならなかった。…
20 朝早く、通りがかりに見ると、いちじくの木が根まで枯れていた。
21 ペテロは思い出して、イエスに言った。「先生。ご覧なさい。あなたののろわれたいちじくの木が枯れました。」
マルコ
Day 1 エルサレム到着→宮→ベタニア(11:11)
Day 2 ベタニア→イチジクを呪う→宮清め(11:12~16)
Day 3 イチジクが枯れているのを見る(11:20~21)
マルコの場合、一度目の訪問では宮を見回っただけで、清めはしていないように書かれています。
一方、マタイは、一度目の訪問で宮清めをして、二度目は教えをしただけのように書いています。
マタイとマルコを調和させるには、宮清めが二度行われたと考えるしかありません。
念のため、ルカの説明を見てみましょう。
ルカ19:41~46
42 言われた。「おまえも、もし、この日のうちに、平和のことを知っていたのなら。しかし今は、そのことがおまえの目から隠されている。
43 やがておまえの敵が、おまえに対して塁を築き、回りを取り巻き、四方から攻め寄せ、
44 そしておまえとその中の子どもたちを地にたたきつけ、おまえの中で、一つの石もほかの石の上に積まれたままでは残されない日が、やって来る。それはおまえが、神の訪れの時を知らなかったからだ。」
45 宮にはいられたイエスは、商売人たちを追い出し始め、
46 こう言われた。「『わたしの家は、祈りの家でなければならない。』と書いてある。それなのに、あなたがたはそれを強盗の巣にした。」
ルカ
Day 1 エルサレム到着→宮清め(19:45~46)
この点で、マタイとルカの説明は一致しています。
●解決案
マルコは、イエスがイチジクの木を呪ったのは宮に向かう途中だと言っているが、だからといって、マタイの説明が間違っていることにはならない。
キリストは宮を二度訪れており、二度目の訪問の途中にイチジクを呪ったのである。
12節には「翌日」とあり、イチジクの木を訪れたのが二日目に宮に行く道すがらであったことが述べられている。
この日、キリストは、売り買いしている者たちを宮から追い出した。だがマタイは、二度行われた宮への訪問をあたかも一度であるかのように描いているのだ。
このことから受ける印象は、キリストは一日目にも宮に入り、商売人たちを追い出したということだ。
マルコの説明は、二つの出来事をより詳しく描写しており、宮への訪問が実際は二度であったことを明らかにしている。
このように考えるなら、食い違いがあると考える理由はまったくない。
終わり