宮清めとイチジクへの呪いの順番 別バージョン
前回掲載したDefending Inerrancyの解決案(二日連続の宮清め説)に、個人的に納得できなかったため、もっと納得のいく説明を探してみました。
私としては、今回の説明のほうが正しい理解だと思います。
問題の一端は、新改訳聖書の翻訳にもあったので、今回は新共同訳を使います。
●検証
マルコ11:11~24
12 翌日、一行がベタニアを出るとき、イエスは空腹を覚えられた。
13 そこで、葉の茂ったいちじくの木を遠くから見て、実がなってはいないかと近寄られたが、葉のほかは何もなかった。いちじくの季節ではなかったからである。
14 イエスはその木に向かって、「今から後いつまでも、お前から実を食べる者がないように」と言われた。弟子たちはこれを聞いていた。
16 また、境内を通って物を運ぶこともお許しにならなかった。
17 そして、人々に教えて言われた。「こう書いてあるではないか。『わたしの家は、すべての国の人の祈りの家と呼ばれるべきである。』ところが、あなたたちはそれを強盗の巣にしてしまった。」
20 翌朝早く、一行は通りがかりに、あのいちじくの木が根元から枯れているのを見た。
21 そこで、ペトロは思い出してイエスに言った。「先生、御覧ください。あなたが呪われたいちじくの木が、枯れています。」
22 そこで、イエスは言われた。「神を信じなさい。23 はっきり言っておく。だれでもこの山に向かい、『立ち上がって、海に飛び込め』と言い、少しも疑わず、自分の言うとおりになると信じるならば、そのとおりになる。24 だから、言っておく。祈り求めるものはすべて既に得られたと信じなさい。そうすれば、そのとおりになる。
エルサレム入城は日曜日(パームサンデー)であることがわかっているので、今回は曜日ごとに出来事をまとめした。
マルコ
日曜 エルサレム到着→宮(視察のみ)→ベタニア(11:11)
月曜 ベタニア→イチジクを呪う→宮清め(11:12~16)
火曜 イチジクが枯れているのを見る(11:20~21)
マタイ21:10~22
12 それから、イエスは神殿の境内に入り、そこで売り買いをしていた人々を皆追い出し、両替人の台や鳩を売る者の腰掛けを倒された。
13 そして言われた。「こう書いてある。『わたしの家は、祈りの家と呼ばれるべきである。』ところが、あなたたちはそれを強盗の巣にしている。」
14 境内では目の見えない人や足の不自由な人たちがそばに寄って来たので、イエスはこれらの人々をいやされた。
16 イエスに言った。「子供たちが何と言っているか、聞こえるか。」イエスは言われた。「聞こえる。あなたたちこそ、『幼子や乳飲み子の口に、あなたは賛美を歌わせた』という言葉をまだ読んだことがないのか。」
17 それから、イエスは彼らと別れ、都を出てベタニアに行き、そこにお泊まりになった。
19 道端にいちじくの木があるのを見て、近寄られたが、葉のほかは何もなかった。そこで、「今から後いつまでも、お前には実がならないように」と言われると、いちじくの木はたちまち枯れてしまった。
20 弟子たちは、これを見て、驚いて言った。「どうして、こうすぐにいちじくの木が枯れたのでしょうか。」
21 イエスは答えて言われた。「まことに、あなたがたに告げます。もし、あなたがたが、信仰を持ち、疑うことがなければ、いちじくの木になされたようなことができるだけでなく、たとい、この山に向かって、『動いて、海にはいれ。』と言っても、そのとおりになります。22 あなたがたが信じて祈り求めるものなら、何でも与えられます。」
マタイ
月曜 イチジクを呪う→イチジクがたちまち枯れる→宮での教え
●正い理解の鍵
そして、D.E. ヒーバート(Hiebert)によると、マタイ21:18~19は例外的に主題的配列で書かれている箇所であるとのことです(Hiebert、P138)。
注1
●解説
マルコの説明から、朝というのは月曜の朝であることは明白です。
☆ ☆ ☆
実は、新改訳聖書の翻訳にはこの点で問題があり、
ですからここは、新共同訳のように「朝早く」とすべきです。
☆ ☆ ☆
次に、マタイは、便宜上、イチジクへの呪いと弟子たちとの対話をまとめて書いています。しかも、呪いと対話が同じ日になされているかのように描写しています。
D.A.カーソンは、マタイのこの書き方について、こう述べています。
「マタイは、典型的な主題的配列で、二つの部分を単につなげているのだ」(P444)。
●まとめ
というわけで、マタイは文学的な技巧として、時系列的には別の日に起きた事柄を続けて書いているということです。
そうすることによって、読者に伝えたい主題をわかりやすく表現しているわけです。
ですから、時系列的な頭で主題的に書かれている箇所を読んでしまうと、あたかも「間違っている」とか「矛盾している」ように思えるわけです。
しかし、主題の理解のしやすさという点では、マタイのほうがわかりやすいのかもしれません。
そういうわけで、これらの箇所を読む際は、マルコは時系列的配列で書いており、マタイは主題的配列で書いているという理解を持って読みましょう。
終わり