ダビデの日記

自分が学んだ聖書の教えに関するブログ

宮清めとイチジクへの呪いの順番 別バージョン

 
 前回の記事の別バージョンになります。
 
 前回掲載したDefending Inerrancyの解決案(二日連続の宮清め説)に、個人的に納得できなかったため、もっと納得のいく説明を探してみました。
 
 私としては、今回の説明のほうが正しい理解だと思います。
 
 問題の一端は、新改訳聖書の翻訳にもあったので、今回は新共同訳を使います。
 
 
検証
 
マルコ11:1124 
こうして、イエスエルサレムに着いて、神殿の境内に入り、辺りの様子を見て回った後、もはや夕方になったので、十二人を連れてベタニアへ出て行かれた。
12 翌日、一行がベタニアを出るとき、イエスは空腹を覚えられた。
13 そこで、葉の茂ったいちじくの木を遠くから見て、実がなってはいないかと近寄られたが、葉のほかは何もなかった。いちじくの季節ではなかったからである。
14 イエスはその木に向かって、「今から後いつまでも、お前から実を食べる者がないように」と言われた。弟子たちはこれを聞いていた。
15 それから、一行はエルサレムに来た。イエスは神殿の境内に入り、そこで売り買いしていた人々を追い出し始め、両替人の台や鳩を売る者の腰掛けをひっくり返された。
16 また、境内を通って物を運ぶこともお許しにならなかった。
17 そして、人々に教えて言われた。「こう書いてあるではないか。『わたしの家は、すべての国の人の祈りの家と呼ばれるべきである。』ところが、あなたたちはそれを強盗の巣にしてしまった。」
20 翌朝早く、一行は通りがかりに、あのいちじくの木が根元から枯れているのを見た。
21 そこで、ペトロは思い出してイエスに言った。「先生、御覧ください。あなたが呪われたいちじくの木が、枯れています。」
22 そこで、イエスは言われた。「神を信じなさい。23 はっきり言っておく。だれでもこの山に向かい、『立ち上がって、海に飛び込め』と言い、少しも疑わず、自分の言うとおりになると信じるならば、そのとおりになる。24 だから、言っておく。祈り求めるものはすべて既に得られたと信じなさい。そうすれば、そのとおりになる。
 

 エルサレム入城は日曜日(パームサンデー)であることがわかっているので、今回は曜日ごとに出来事をまとめした。 
 
マルコ
日曜 エルサレム到着→宮(視察のみ)→ベタニア(1111) 
月曜 ベタニア→イチジクを呪う→宮清め(111216
火曜 イチジクが枯れているのを見る(112021
 

マタイ21:1022
エスエルサレムに入られると、都中の者が、「いったい、これはどういう人だ」と言って騒いだ。
11 そこで群衆は、「この方は、ガリラヤのナザレから出た預言者エスだ」と言った。
12 それから、イエスは神殿の境内に入り、そこで売り買いをしていた人々を皆追い出し、両替人の台や鳩を売る者の腰掛けを倒された。
13 そして言われた。「こう書いてある。『わたしの家は、祈りの家と呼ばれるべきである。』ところが、あなたたちはそれを強盗の巣にしている。」
14 境内では目の見えない人や足の不自由な人たちがそばに寄って来たので、イエスはこれらの人々をいやされた。
15 他方、祭司長たちや、律法学者たちは、イエスがなさった不思議な業を見、境内で子供たちまで叫んで、「ダビデの子にホサナ」と言うのを聞いて腹を立て、
16 イエスに言った。「子供たちが何と言っているか、聞こえるか。」イエスは言われた。「聞こえる。あなたたちこそ、『幼子や乳飲み子の口に、あなたは賛美を歌わせた』という言葉をまだ読んだことがないのか。」
17 それから、イエスは彼らと別れ、都を出てベタニアに行き、そこにお泊まりになった。
18 朝早く、都に帰る途中、イエスは空腹を覚えられた。
19 道端にいちじくの木があるのを見て、近寄られたが、葉のほかは何もなかった。そこで、「今から後いつまでも、お前には実がならないように」と言われると、いちじくの木はたちまち枯れてしまった。
20 弟子たちは、これを見て、驚いて言った。「どうして、こうすぐにいちじくの木が枯れたのでしょうか。」
21 イエスは答えて言われた。「まことに、あなたがたに告げます。もし、あなたがたが、信仰を持ち、疑うことがなければ、いちじくの木になされたようなことができるだけでなく、たとい、この山に向かって、『動いて、海にはいれ。』と言っても、そのとおりになります。22 あなたがたが信じて祈り求めるものなら、何でも与えられます。」
 

マタイ
日曜 エルサレム到着→宮清め→ベタニア(21:10~17)
月曜 イチジクを呪う→イチジクがたちまち枯れる→宮での教え
 
 
正い理解の鍵
 
 今回、参考にしたChristian Courierによると、「福音書の著者たちは単なる写本写筆者ではなく、独立した著作者であり、各自が独自の技巧を使っていた」とされています(注1)。
 
 マタイの場合、福音書のある部分は時系列的配列で書き、他の部分は主題的配列書いているとのことです。
 
 そして、D.E. ヒーバート(Hiebertによると、マタイ211819は例外的に主題的配列で書かれている箇所であるとのことです(HiebertP138)。
 
 
1
ウィリアム・ヘンドリクセン(William Hendricksen)によるマタイの福音書注解(P773) 


解説

 マタイは、イチジクの木に対する呪いは、宮清めの翌日だとは言っておらず、単に「朝早く、都に帰る途中、イエスは空腹を覚えられた」と書いているだけです(2118
 
 マルコの説明から、朝というのは月曜の朝であることは明白です。
 

☆ ☆ ☆
 
 実は、新改訳聖書の翻訳にはこの点で問題があり、
 
 ギリシャ語原文では「早朝に」を意味するプロイという語が使われているのに、それを「翌朝」と訳しているのです。
 
 ですからここは、新共同訳のように「朝早く」とすべきです。
 
☆ ☆ ☆
 

 次に、マタイは、便宜上、イチジクへの呪いと弟子たちとの対話をまとめて書いています。しかも、呪いと対話が同じ日になされているかのように描写しています。
 
 D.A.カーソンは、マタイのこの書き方について、こう述べています。
 
マタイは、典型的な主題的配列で、二つの部分を単につなげているのだ」(P444)。
 
 
 
●まとめ
 
 というわけで、マタイは文学的な技巧として、時系列的には別の日に起きた事柄を続けて書いているということです。
 
 そうすることによって、読者に伝えたい主題をわかりやすく表現しているわけです。
 
 ですから、時系列的な頭で主題的に書かれている箇所を読んでしまうと、あたかも「間違っている」とか「矛盾している」ように思えるわけです。
 
 しかし、主題の理解のしやすさという点では、マタイのほうがわかりやすいのかもしれません。
 
 そういうわけで、これらの箇所を読む際は、マルコは時系列的配列で書いており、マタイは主題的配列で書いているという理解を持って読みましょう。
 
 終わり