へブル書の著者は詩篇を改ざんしたのか? ヘブル10:5
●問題点
ヘブル10:5
ですから、キリストは、この世界に来て、こう言われるのです。「あなたは、いけにえやささげ物を望まないで、わたしのために、からだを造ってくださいました。」
詩篇40:6
ヘブル10:5で、へブル書の著者は詩篇40:6を引用しています。
そして、キリストが受肉し、その身を捧げたことによって、真の生贄が成就したと述べています。
しかし、元の詩篇のほうを見ると、「体」という言葉は書かれていません。批判的に見ると、これは聖書の改ざんとも言えます。
こういう問題をどう考えればいいのでしょうか?
●解決案
*後述しますが、今回どちらの参考サイトにも酷い間違いが含まれているため、いつものように全訳はしません。
Sacrifice and offering thou wouldest not; but a body hast thou prepared me: whole-burnt-offering and [sacrifice] for sin thou didst not require.
しかしガイスラー博士のように、シカゴ声明を堅持するタイプの方々からすると、「七十人訳からの引用でした」という答えでは問題が解決したことになりません。
なぜかというと、彼らから見ると、七十人訳は神の霊感を受けていないからです。
にもかかわらず、それを「間違った引用」と言ってしまうのは、大きな問題だと思います。
私はこの点で、シカゴ声明を堅持する方々の聖書観が理解できません。
人間が考えた理屈に固執するあまり、聖書筆者の引用にケチをつけるとは、一体どういうことでしょうか?
彼らは、自分たちの主張の中にある自己矛盾に気づいていないのです。
●更なる解説
しかし、シカゴ声明を堅持する方々の聖書解釈から学べることは多々ありますので、上記サイトによる更なる解説を見ていきましょう。
例えば、詩篇22:16に使われています。
口語訳
まことに、犬はわたしをめぐり、悪を行う者の群れがわたしを囲んで、わたしの手と足を刺し貫いた。
☆ ☆ ☆
ここで詩篇40:6に戻りますが、「耳を開いた」というのは比喩的な表現です。
しかし、もし、その奴隷が、『私は、私の主人と、私の妻と、私の子どもたちを愛しています。自由の身となって去りたくありません。』と、はっきり言うなら、6 その主人は、彼を神のもとに連れて行き、戸または戸口の柱のところに連れて行き、彼の耳をきりで刺し通さなければならない。彼はいつまでも主人に仕えることができる。
上記の箇所の「耳をきりで刺し通す」というのは、しもべが自発的に主人に従うことを意味します。
それと同じように、詩篇40篇の著者は、神は表面的な儀式を求めているのではなく、
神を愛して、自発的に従うことを求めていると主張しているわけです。
その意味を知っていたヘブル書の著者は、キリストにも同じことを適用したわけです。
キリストがこの世界に来たのは、自発的な愛による神への従順である。
そのような含みを込めて、詩篇40篇から引用しているということです。
七十人訳はそのような意味を保ちつつ、別の言葉で言い換えており、
それを引用したからといって、改ざんには当たらない、というのが2つのサイトの説明です。
●あとがき
2つの参考サイトによる説明は、それはそれで興味深い点がありますが、
素直に七十人訳を霊感された神の言葉と認めれば、
回りくどい説明をしなくても済むと思います。
終わり