ダビデの日記

自分が学んだ聖書の教えに関するブログ

携挙が起こるタイミング 1テサロニケ4章

 
「聖書の現象」について書いていた間も、携挙に関するコメントがいくつか来ました。
 
 終末論に対する関心が高いのだと思います。
 
 そこで、単発ですが携挙が起こるタイミングについて書こうと思います。
 
 なお、反論される場合は、記事で取り上げる聖書箇所の釈義を提示した上で、そうなさってください。
 
 そうでない場合、「『終末論』の書庫を最初からお読みください」というお返事になる可能性が高いことを、予めご了承ください。
 
 
「主の言葉」とは?
 
1テサロニケ4:15~17・新共同訳
主の言葉に基づいて次のことを伝えます。主が来られる日まで生き残るわたしたちが、眠りについた人たちより先になることは、決してありません。16 すなわち、合図の号令がかかり、大天使の声が聞こえて、神のラッパが鳴り響くと、主御自身が天から降って来られます。すると、キリストに結ばれて死んだ人たちが、まず最初に復活し、17 それから、わたしたち生き残っている者が、空中で主と出会うために、彼らと一緒に雲に包まれて引き上げられます。このようにして、わたしたちはいつまでも主と共にいることになります。
 
 
 この箇所の冒頭で、「主の言葉に基づいて」とパウロは言っています。
 
 パウロは、小説じみた思い付きでこの箇所を書いたのではなく、キリストがすでに語っていた言葉に基づいて書いたのです。
 
「主の言葉」が具体的に何を示すかについては、マタイ24章のオリーブ山(再臨のキリストが降り立つ場所)での説教である可能性が極めて高いと言える根拠があります。
 
 
マタイ24章/主イエス       出来事      2テサロニケ/パウロ
24:5
惑わし
2:2~3前半
24:5、11、24
偽キリスト、不法の人
2:6~11
24:12
愛が冷える、背教
2:3
24:15
反キリスト神殿へ
2:4
24:21~22
苦難、苦しみ
1:6~10
24:30~31
来臨、天使、雲、ラッパ
1テサ4:16~17
24:30~31
来臨
2テサ2:8
24:31
信者を集める(携挙)
1テサ4:17、2テサ2:1
24:36、42、44、50
思い掛けない時
1テサ5:1~4
24:42~25:13
目を覚ましていなさい
1テサ5:6~8
 

 上記の表に示したとおり、マタイ24章は1・2テサロニケと重なる表現やテーマが多々見られ、これだけでもパウロがマタイ24章を参照していたと言えますが、
 
 特に1テサロニケ41617は、マタイ2431に基づいている可能性が非常に高いことを、説明していきたいと思います。


マタイ24:29~31・新共同訳 
その苦難の日々の後、たちまち太陽は暗くなり、月は光を放たず、星は空から落ち、天体は揺り動かされる。30 そのとき、人の子の徴が天に現れる。そして、そのとき、地上のすべての民族は悲しみ、人の子が大いなる力と栄光を帯びて天の雲に乗って来るのを見る。31人の子は、大きなラッパの音を合図にその天使たちを遣わす。天使たちは、天の果てから果てまで、彼によって選ばれた人たちを四方から呼び集める。
 
1コリント15:52 
最後のラッパが鳴るとともに、たちまち、一瞬のうちにです。ラッパが鳴ると、死者は復活して朽ちない者とされ、わたしたちは変えられます。
 
 
 1テサロニケ41617がマタイ2431に基づいている可能性を濃厚にするのは、「ラッパ」と訳されているサルピンクスというギリシャ語です。
 
 サルピンクスは、携挙の主要テキストである1テサロニケ4161コリント15:52で使われていますが、福音書で使われているのはマタイ2431だけです。
 
*この点を確認したい方は、サルピンクスのリンクを開き、右側の使用箇所をご覧ください(英語)。

 パウロが1テサロニケ4:16でラッパと書くときサルピンクスを使ったことは、マタイ24:31を参考にしていたからだとしか考えられません。

 そこ以外に、サルピンクスを含む主イエスによる終末の説明が存在しないからです。
 
 このことから、パウロは、マタイ2431の主イエスの言葉に基づいて、1テサロニケ4:16~17を書いたと考えてよいでしょう。
 
 この見解は、以下の説明によって更に有力になります。
 
 
「呼び集める」のギリシャ
 
マタイ24:31 
人の子は、大きなラッパの音を合図にその天使たちを遣わす。天使たちは、天の果てから果てまで、彼によって選ばれた人たちを四方から呼び集める
  
 
 マタイ2431で「呼び集める」と訳されているギリシャ語は、エピスナゴーといいます。
 
 また、2テサロニケ21の、信者が主のみもとに「集められること」という部分は
 エピスナゴゲの訳語で、エピスナゴーの名詞形です。

 主のみもとに「集められること」というのは、文脈から1テサロニケ4章の携挙のことだとわかりますが、

 その「集められること」とマタイ2431の「呼び集める」が同じギリシャ語であることから、マタイ24:31は「携挙」を描写していると考えることができます。

 これは、先に述べた結論をさらに強化します。
 
 ちなみに、携挙の描写は、マタイ244041も見られます。
 
 
マタイ244041・新共同訳
そのとき、畑に二人の男がいれば、一人は連れて行かれ、もう一人は残される。
二人の女が臼をひいていれば、一人は連れて行かれ、もう一人は残される。
 
  
 新改訳聖書で「取る」と訳されているパラランバノーは、「一緒に連れて行く」という意味です。

 終末における裁きの時が近づくと、一人は天使によって主のもとに連れて行かれ、もう一人はそのまま残されるのです。
 
 つまり、マタイ24章で「呼び集める」「連れて行かれる」と表現されている出来事(携挙)を、

 パウロは1テサロニケ417で「引き上げられます」(携挙)という表現で言い換えているのです。
  
 このように、1テサロニケ4:16~17とマタイ2431は、同じ出来事を描写していると考えられ、両者が携挙の描写であるする結論がますます確かになります。  
   
 
携挙のタイミング
 
 では、携挙が起きるタイミングはいつなのでしょうか?

2テサロニケ2:1~3 
さて兄弟たちよ。私たちの主イエス・キリストが再び来られることと、私たちが主のみもとに集められることに関して、あなたがたにお願いすることがあります。主の日がすでに来たかのように言われるのを聞いて、すぐに落ち着きを失ったり、心を騒がせたりしないでください。なぜなら、まず背教が起こり、不法の人、すなわち滅びの子が現われなければ、主の日は来ないからです。
 
 
 この箇所の文脈からわかるのは、「主イエス・キリストが再び来られることと、私たちが主のみもとに集められること」が「主の日」に起こるということです。
 
 しかしパウロは、背教や反キリストの台頭が起こらない限り、「主の日」は到来しないと言っています。

「主のみもとに集められること」というのは携挙のことですから、背教や反キリストの台頭が起こらない限り、携挙も起こらないということです。

 マタイ24章を参照すると、14節で世界宣教の完了が語られ、15節では反キリストの台頭
 
 21節では「いまだかつてなかったような、またこれからもないような、ひどい苦難」、すなわち大患難期のことが述べられています。
 
 携挙が起こるのは、「これらの日の苦難に続いてすぐ」だと主は語っています(29節)
 
 つまり、携挙が起こるのは大患難期の直後です。  


キリストの花嫁=大患難の聖徒
 
 携挙が大患難期の後であることは、黙示録からも裏付けられます。
 
黙示録19:7
私たちは喜び楽しみ、神をほめたたえよう。小羊の婚姻の時が来て、花嫁はその用意ができたのだから。花嫁は、光り輝く、きよい麻布の衣を着ることを許された。その麻布とは、聖徒たちの正しい行ないである。
 
 
 197では、キリストと花嫁の婚宴の時が来たことが宣言されています。
 
 8節には、花嫁が着る「麻布の衣」は、「聖徒たちの正しい行い」であると書かれています。
 
 この「聖徒たち」というのは、黙示録137、同1412、同176、同182024に出て来る「聖徒たち」で、

 通称「大患難期の聖徒」と呼ばれているクリスチャンたちです。
 
 さて、麻布=聖徒たちの正しい行いであるということは、その麻布を着ることを許されたキリストの花嫁=聖徒たちであることもわかります。
 
 そして、エペソ52533によれば、キリストの花嫁=教会です。
 
 ですから、キリストの花嫁=聖徒たち=教会です。
 
 これは何を意味するでしょうか?
 
 教会は、黙示録1911に書かれているキリストの地上再臨まで、地上に存在するということです。
 
 このことは、携挙が起こるのは大患難期の直後とした先の結論と一致します。
 
 
●あとがき
 
 どうしても大患難期を通りたくないという方は、その前に天に帰れるよう祈るべきです。

 聖書は、携挙が起こるのは大患難期の後の再臨の時であると教えているからです。
 
 繰り返しますが、この結論に反論されたい方は、これまで取り上げた聖書箇所の釈義を提示した上で、そうなさっていただけますようお願いいたします。
 
 別の聖書箇所を引っ張って来て反論されると、別の説明を延々と繰り返すことになるのでご遠慮ください。

 終わり