ダビデの日記

自分が学んだ聖書の教えに関するブログ

聖書に基づく聖書観と推論に基づく聖書観の違い     2テモテ3:15~16

 聖書観についての記事です。 
 
2テモテ3:1516 
また、幼いころから聖書に親しんで来たことを知っているからです。聖書はあなたに知恵を与えてキリスト・イエスに対する信仰による救いを受けさせることができるのです。聖書はすべて、神の霊感によるもので、教えと戒めと矯正と義の訓練とのために有益です。
 
 
 福音派の教会に所属しておられる方は、聖書の無誤性や霊感について、概ね次のように教えられてきたと思います。
 
 聖書は原典において誤りがない、聖書の原典が神の霊感によって書かれている…。
 
 こういった概念は、次に挙げるシカゴ声明に基づくものです。 
 
シカゴ声明:主張と否定の諸条項
 
6 聖書全体が、またそのあらゆる部分が、原本において、ことばそのものに至るまで、神の霊感によって与えられたということを私たちは主張する。 
 
10 霊感は、厳密に言えば、聖書の原本にのみ適用されること、その聖書本文は神の摂理によって私たちの手に入れうる諸写本から、高度の正確さをもって確認できることを私たちは主張する。(強調はブログ主)
 
 
 第6項は、いわゆる「言語霊感説」というものの説明であり、第10項は、福音主義が従来、立脚してきた聖書観を述べたものです。
 
 しかし、2テモテ31516原文を、いわゆる歴史的文法的解釈法で釈義すると、実はシカゴ声明のような結果は出てきません。
 
 これから、その点を説明します。 
 
15 καὶ ὅτι ἀπὸ βρέφους [τὰ] ἱερὰ γράμματα οἶδας, τὰ δυνάμενά σε σοφίσαι εἰς σωτηρίαν διὰ πίστεως τῆς ἐν Χριστῷ Ἰησοῦ. 16 πᾶσα γραφὴ θεόπνευστος καὶ ὠφέλιμος πρὸς
 
 
 15節前半の「聖書」は、原文ではἱερὰ γράμματα/ヒエラ・グラマータ」と書かれています。

 この部分は複数形で書かれており、τὰ/ター」という定冠詞がついています。
 
 ですから厳密にいうと、パウロは、テモテが幼い頃から慣れ親しんできた特定の聖書のことについて述べています。
 
 当時の文化的背景を加味して解釈するなら、旧約聖書ギリシャ語訳、つまり七十人訳聖書を指すと考えられます。 
 
 一方、16節の「聖書はすべて」の部分は、「πᾶσα γραφὴ/パサ・グラフェー」と書かれており、定冠詞がついておらず単数形で書かれています。
 
 これは何を意味するかというと、目に見える特定の聖書に言及しているのではなく、聖書というものの特質に関して一般論を述べていることを意味します。
 
「聖書信仰とその諸問題」(いのちのことば社)の中で、著者の一人である鞭木(むちき)先生はこう述べています。 
 
通常聖書を指す時は定冠詞を伴いますが、ここは個体としての聖書よりは、定冠詞をつけないことで、聖書の持っている性質や役割を述べている箇所です。P266 
 
 ちなみに、このパサ・グラフェーという表現の中に、新約聖書を含めて解釈すべきかどうかという点が、学者の間で議論になります。
 
 なぜかというと、パウロがこの箇所を書いた時点では、新約聖書はまだ存在していなかったので、パウロがそのようなものを意識していたとは考えにくいからです。
 
 例えば、ヨハネ福音書や黙示録は、2テモテが書かれた時点ではまだ存在していないはずです。
 
 しかし、それらを含めて新約聖書であるわけですから、パサ・グラフェーという言葉の定義の中に新約聖書を含めてしまうなら、それは早合点ということになります。
 
 ただし、分冊のような形で使徒たちが記した書簡の写しなどは出回っていたでしょう。
 
 ですから、将来的に新約聖書の一部となるものをパサ・グラフェーの中に含めて解釈することは、十分可能だと思います。
 
 また、解釈としてではなく適用として、パサ・グラフェーの中に新約聖書を含めることは、言うまでもなく問題ありません。
 
 私が間違いだと思うのは、このパサ・グラフェーの解釈の中に、聖書の原典という概念を持ち込むことです。
 
 パウロの時代には、旧約聖書の原典はすでに失われており、存在しませんでした。
 
 存在していないものを、どうして著者が頭の中で描くでしょうか。
 
 パウロがパサ・グラフェーと書いたとき、旧約聖書の原典のことなど意識していなかったと思います。
 
 もちろん、この箇所の適用として、旧約聖書の原典が神の霊感によって書かれたはずだと、理論的に結論づけることは可能ですし、まったく問題ありません。
 
 しかし、解釈としては無理があると思います。
 
 パサ・グラフェーの意味は、あくまで聖書一般の性質に言及するものとすべきだと思います。
 
 そして重要なのは、グラフェー(聖書)の定義づけです。
 
 当然のこととして、パウロは聖書という概念の中に、自らも使用していた七十人訳の特質を考慮していたことは間違いないでしょう。
 
 それをグラフェーの定義の中に含めないなら、逆に大きな問題になります。
 
 では、七十人訳の特質をグラフェーの定義に含めることは何を意味するでしょうか。
 
 七十人訳は、①翻訳版聖書であり、②書き写された底本から生まれた聖書でした。

 ですから、グラフェーという言葉の定義の中に、それらの特質を反映させるべきだと思います。

 これらの特質は、原典のそれとは大きく異なっているため、これらの特質を加味することで、

 これまでシカゴ声明が表現し損なっていた聖書観に、光が当てられることになります。
 
 パサ・グラフェーの適用として、現代において数多く用いられている翻訳版聖書も、神の霊感によって書かれたと考えることができるようになります。 

 こう考えた場合、七十人訳に含まれる外典や偽典をどう位置づけるのか、という問題が浮上してきます。
 
 それについて私が思うことは、こうです。

 イエスさまや新約聖書の筆者たちは、外典からの引用を一切行っていません。
 
 なので、外典は神の霊感によって書かれている書物から除外すべきだと思います。
 
 次に偽典についてですが、ユダの手紙11415に、偽典の一つである第一エノク19からの引用があります。 
 エノクの書は、「教父たちの評価も高かった」そうですが、だからといって、ユダが第一エノク全体を、神の言葉として認めていたと結論づけるのは早計でしょう。


 ユダは、その特定の引用箇所だけを真理として認識していた可能性があります。
 
 ですから、第一エノク全体をパサ・グラフェーの中に含めるという考えは、やめておいたほうがいいでしょう。

 シカゴ声明に立脚する方々は、七十人訳を神の霊感を受けた聖書として認めることを嫌いますが、

 新約聖書の筆者の引用の仕方は、私たちが考えるよりも範囲が広かったと言えます。

 例えば、使徒1728パウロが引用しているのはアラトスという紀元前3世紀のギリシャの詩人の言葉ですし、
 
 1コリント1533の引用は、紀元前3世紀のギリシャの作家であるメナンドロスの言葉です。

*「友だちが悪ければ、良い習慣がそこなわれますがメナンドロスの言葉。 
 
 テトス112の引用は、古代ギリシャの伝説的詩人であり、預言者であるとも言われるエピメニデス(紀元前600年頃)の言葉です。 
 
 パウロ新約聖書の複数の箇所において、これら非信者の言葉を真理として引用しているのですから、
 
 ヘブル語旧約聖書の写本よりも1000年も古い写本を翻訳した七十人訳を、神の言葉として認めないというのはおかしいと思います。

 古い写本のほうがより正確であると考えるのは自然ですが、シカゴ声明は、存在すらしていない聖書の原典を持ち出し、

「厳密に言えば、聖書の原本にのみ適用される」と言っているのですから、理に適わないことは否めません。
 
 第6項と第10項は、神学的な推論から生まれた概念であって、2テモテ316の解釈ではありません。
 
 私たちは、その点をはっきり理解しておく必要があります。 終わり