ダビデの日記

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黙示録11:15の第7のラッパは携挙のラッパなのか?  その1


 パウロは1テサロニケ416で、携挙/再臨の際に「神のラッパ」が鳴ると言っています。
 
 また、1コリント1552には、「最後のラッパ」が鳴るとき、死んでいた信者が蘇り、生きている信者は今とは違う状態に変えられると書かれています(新共同訳)。
 
 では、このラッパは、黙示録1115の第七の御使いが吹き鳴らすラッパなのでしょうか?
 
 黙示録11:15のラッパは第七のラッパですから、「最後のラッパ」だと言えます。
 
 実際、患難中携挙説に立つ方々は、黙示録1115に基づいて携挙が(7年間の)患難期の中頃に起こると考えています。
 
 例えば、ある教会の「キリスト教入門」のウエブには、次のように書かれています。
 
 
私達の群れや、マーリン・キャロザース師は、患難中携挙説をとっています。
 
第7の御使いがラッパを吹き鳴らした。すると、天に大きな声々が起こって言った。「この世の国は私達の主およびそのキリストのものとなった。主は永遠に支配される。」
黙示録11:15
 
第7のラッパが吹かれる時この勝利が開かれます。このラッパは患難時代の真ん中で吹かれます。このラッパは、大患難時代への幕開けを告げると共に、クリスチャンの死者の復活と、携挙を意味すると思われます。これらや、様々な聖書箇所を通し学んでいくと、患難時代の中間で携挙がなされるというのが妥当ではないか思われます。ある程度は迫害の中を通りますが、殉教か裏切るしかない大患難の前には、恵みによって携挙されると思われます。
                              (強調はブログ主)
 
 しかし、当ブログでは、患難期が3年半だけあること、また、黙示録11章前半が再臨までを含む3年半の患難期を描写していることを、すでに論じました。
 
 ですから、黙示録1115の第7のラッパが、携挙/再臨時に鳴るラッパであると考えることは正しいのです。
 
 1テサロニケ416や1コリント1552のラッパと、黙示録1115のラッパは同じものです。
 
 このあと、その点をさらに確認していきます。
 
 
旧約聖書におけるラッパ
 
民数記10:10
また、あなたがたの喜びの日、あなたがたの例祭と新月の日に、あなたがたの全焼のいけにえと、和解のいけにえの上に、ラッパを鳴り渡らせるなら、あなたがたは、あなたがたの神の前に覚えられる。わたしはあなたがたの神、主である。
 
 
 上記の箇所は、ラッパを鳴らす意味を説明しています。
 
 モーセは「喜びの日」にラッパを鳴り響かせるよう指導しており、その理由は「神の前に覚えられる」ためです。
 
 ちなみに、七十人訳のこの箇所を見ると、「ラッパ」はサルピンクスというギリシャ語で書かれており、
 
鳴り渡らせる」は、サルピンクスの動詞であるサルピゾー(ラッパを吹き鳴らす)という言葉です。
 
 名詞のサルピンクスは、1コリント15:52や1テサロニケ4:16の「ラッパ」と同じギリシャ語です。
 
 また、黙示録11:15の「ラッパを吹き鳴らした」は、サルピゾーの過去形です。
 
 言うまでもありませんが、サルピンクスとサルピゾーは品詞が違うだけで同じ言葉です。
 
 以下の七十人訳民数記をご覧ください。
 
 
 
 
 最初に出てくる「σαλπιετε」は、サルピゾーの二人称(あなたがた)の未来形です。
 
 次に出てくる「σάλπιγξιν」は、サルピンクスの複数形です。
 
 上記の事実は、以下のリンクからも確認できます。
 
 
サルピンクス/サルピゾーの使用箇所を示すサイト(英語とギリシャ語)
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 上記の説明で、パウロヨハネが頭の中で描いている「ラッパ」が、民数記の「ラッパ」と関連していることは明白になりました。
 
 その2では、黙示録11章後半が、民数記で言うような「喜びの日」を告げていることを説明します。
 
 それによって、1コリント、1テサロニケ、黙示録の聖書箇所に出てくる「ラッパ」が同一のものであることが、よりお分かりいただけると思います。