ダビデの日記

自分が学んだ聖書の教えに関するブログ

黙示録11:15の第7のラッパは携挙のラッパなのか?  その2


 
神の国の実現の喜び
 
黙示録11:1519
第七の御使いがラッパを吹き鳴らした。すると、天に大きな声々が起こって言った。「この世の国は私たちの主およびそのキリストのものとなった。主は永遠に支配される。」
16 それから、神の御前で自分たちの座に着いている二十四人の長老たちも、地にひれ伏し、神を礼拝して、17 言った。「万物の支配者、常にいまし、昔います神である主。あなたが、その偉大な力を働かせて、王となられたことを感謝します。
18 諸国の民は怒りました。しかし、あなたの御怒りの日が来ました。死者のさばかれる時、あなたのしもべである預言者たち、聖徒たち、また小さい者も大きい者もすべてあなたの御名を恐れかしこむ者たちに報いの与えられる時、地を滅ぼす者どもの滅ぼされる時です。」19 それから、天にある、神の神殿が開かれた。神殿の中に、契約の箱が見えた。また、いなずま、声、雷鳴、地震が起こり、大きな雹が降った。
 
 
 黙示録注解書ランキング第2位の「The Book of Revelation」を再び参考にしつつ、この箇所を説明します。
 
15節:第七の御使いがラッパを吹き鳴らした」理由は、神の国が遂に実現した喜びを告げるためです。 
 
この世の国は私たちの主およびそのキリストのものとなった。主は永遠に支配される。」
 
 日本語訳でも「ものとなった」と過去形で訳されているとおり、原文のこの部分はアオリスト過去形で書かれています。
 
 インド・ヨーロッパ語族 比較言語学というサイトでは、アオリスト過去形をこう説明しています。
 
「アオリストとは過去の持続しない回きりの行為・出来事を指し示している。」
 
 つまり、第七の御使いが告げ知らせた時点で、神の国が実現したのです。
 
 神の国の実現は歴史上1回きりですが、前回の記事で説明したとおり、黙示録では、一つの場面を別の視点から見て繰り返し描写しす。
 
 その結果、黙示録の別の箇所にも神の国の実現を示す表現が出てきます。
 
 しかし、この1115神の国の実現を示しているのです。
 
 ですから、第七の御使いはその喜びを表すために「ラッパを吹き鳴らした」わけです。
 
 
16節:「二十四人の長老たちも、地にひれ伏し…」
 
 24人の長老は、通常は座っています(黙示録4:4)。
 
 しかし、ここでは、神の国が実現したため、座を離れて神の前にひれ伏しました。
 
 
17節:「あなたが、その偉大な力を働かせて、王となられたことを感謝します
 
 この箇所の「力を働かせて」や「王となられた」と言う部分には、少し訂正が必要です。
 
「力を働かせて」の部分は、「受け取る、手に入れる」を意味するランバノーという動詞の完了形で書かれています。
 
 日本語で完了を表すのは困難ですが、しいて訳せば「力を手に入れてしまった」ということです。
 
 また、「王となられた」の部分には、起動相/inceptiveのアオリスト過去形が使われています。
 
 なので、「統治しはじめた」と訳す必要があります。
 
 ダニエル・ウォレス博士のギリシャ語文法サイトによると、起動相についてこう説明されています。
 
しばしばアオリストは、行為の開始や特定の状態への突入を強調するために使われる。
The aorist tense is often used to stress the beginning of an action or the entrance
into a state.
 

 この2点を訳出している日本語の聖書は、残念ながらありません。
 
 英語の聖書では、両方とも訳出されています。
 
 
ESV
saying,We give thanks to you, Lord God Almighty,who is and who was,
for you have taken your great power and begun to reign.
 
私たちは、あなたに感謝します。全能なる神であられる主よ。今おられ、嘗ておられた方。なぜなら、あなたが大いなる力を手に入れられ、統治しはじめたからです
 
 
 このように、既にこの箇所で、神による御国の統治がはじまったのです。
 
 言い換えると、この幻は新しい時代の始まりを描いているのであって、7年間の患難期の途中の光景ではありません。
 
 
18節:「御怒りの日」が来たと24人の長老が言っています。
 
 ただし、原文には「日」に相当する言葉はなく、「御怒り」としか書かれていません。
 
 それゆえ、新共同訳ではこうなっています。
 
新共同訳
異邦人たちは怒り狂い、あなたも怒りを現された。死者の裁かれる時が来ました。
 
 
「御怒り」と訳されているオルゲーは、次ような箇所でも使われています。
 
 
1テサロニケ1:10
また、神が死者の中からよみがえらせなさった御子、すなわち、やがて来る御怒りから私たちを救い出してくださるイエスが天から来られるのを待ち望むようになったか、それらのことは他の人々が言い広めているのです。
 
1テサロニケ5:9
神は、私たちが御怒りに会うようにお定めになったのではなく、主イエス・キリストにあって救いを得るようにお定めになったからです。
 
 
 御怒りの時である世の終わりは、信者にとっては「報いの与えられる時」です。
 
 しかし、キリストを信じない者たちにとっては「滅ぼされる時」です。
 
 
19節:マウンスは、「契約の箱」は、信者のための神からの報いだと述べています。
 
 一方、「いなずま、声、雷鳴、地震、大きな雹」は、不信者に対する御怒りの表れだとしています。
 
 パウロは、この終わりの時をこのように描写しています。
 
 
つまり、あなたがたを苦しめる者には、報いとして苦しみを与え、苦しめられているあなたがたには、私たちとともに、報いとして安息を与えてくださることは、神にとって正しいことなのです。
 
そのことは、主イエスが、炎の中に、力ある御使いたちを従えて天から現われるときに起こります。そのとき主は、神を知らない人々や、私たちの主イエスの福音に従わない人々に報復されます。
 
そのような人々は、主の御顔の前とその御力の栄光から退けられて、永遠の滅びの刑罰を受けるのです。
 
その日に、主イエスは来られて、ご自分の聖徒たちによって栄光を受け、信じたすべての者の――そうです。あなたがたに対する私たちの証言は、信じられたのです。――感嘆の的となられます。2テサロニケ1:6~10
 
 
●まとめ
 
 これまでの説明をまとめると、次のようになります。
 
 1コリ15:52の最後のラッパ=1テサ4:16のラッパ=黙11:15の第7のラッパ
 
 終わり