ダビデの日記

自分が学んだ聖書の教えに関するブログ

マタイ24:31の「選びの民」とはユダヤ人か信者全般か?

 
 終末論が論じられるとき、マタイ24:31は最も物議を醸す聖書箇所の一つです。
 
 この箇所が患難期前の携挙を指しているのか、それとも地上再臨を指しているのか、
 
 また、「選びの民」とはユダヤ人なのか、信者全般なのかが争われます。
 
 米国では、患難携挙説に立つ人の中にも、この箇所はユダヤ人信者に言及していると説く人がいます。
 
 つまり、白か黒かだけの問題ではなく、グレーもあるということです。
 
 どの見解が正しいのでしょうか?
 
 
原語の用法と文脈
 
マタイ24:31
人の子は大きなラッパの響きとともに、御使いたちを遣わします。すると御使いたちは、天の果てから果てまで、四方からその選びの民を集めます。
 
新共同訳
人の子は、大きなラッパの音を合図にその天使たちを遣わす。天使たちは、天の果てから果てまで、彼によって選ばれた人たちを四方から呼び集める。
 
 
 マタイ24:31の「選びの民/選ばれた人たち」は、原文ではエクレクトスの複数形で書かれています。
 
 エクレクトスそのものは形容詞ですが、定冠詞をつけることで名詞として使われています。
 
 このエクレクトスが単数形か複数形かの違いが、ユダヤ人を表しているのかそれとも信者全般を表しているのかを判断する、指標の一つになります。
 
 1ペテロ2:9の「選ばれた種族」のように一種類の種族を表す場合は、エクレクトス単数形で使われています。
 
 しかし、ローマ8:33の「神に選ばれた人々…」や、マタイ22:14の「招かれる者は…選ばれる者は…」のように信者全般を示す場合は、エクレクトスも複数形です。
 
 そして、問題のマタイ24:31のエクレクトスは複数形です。
 
 この使われ方で判断する限り、マタイ24:31のエクレクトスは信者全般を指していると考えるべきでしょう。

               ***
 
 さて、文脈という点で見ると、マタイ24章にイスラエルが背景になっている箇所が多いのは明らかです。
 
 それを考慮すると、マタイ24:31のエクレクトスがユダヤ人信者を指している可能性は高まります。
 
 しかし、22節の患難期の日数、24節の偽キリスト、31節の世界中からの携挙など、
 
 どの節を見ても、エクレクトスの直近の文脈は普遍的なものばかりです。
 
 また、それらの箇所では、どのエクレクトスも複数形です。
 
 このように、直近の文脈を考慮しても、マタイ24:31のエクレクトスをユダヤ人だけに限定することは難しいと思います。
 
 ところがです
 
 旧約聖書との関連でマタイ24:31を見ると、この箇所のエクレクトスがユダヤ人信者である可能性が出てきます。
 
 
●イザヤ書との関連 
 
 新改訳聖書のマタイ24:31の欄外には、関連箇所としてイザヤ27:13と記されています。
 
イザヤ27:1213・口語訳
12 イスラエルの人々よ、その日、主はユフラテ川からエジプトの川にいたるまで穀物の穂を打ち落される。そしてあなたがたは、ひとりびとり集められる。
13 その日大いなるラッパが鳴りひびき、アッスリヤの地にある失われた者と、エジプトの地に追いやられた者とがきて、エルサレムの聖山で主を拝む。
 
 
 この箇所には、マタイ24:31と酷似している点が複数あります。
 
 世の終わりの日に「大いなるラッパが鳴りひびき」という部分が、マタイ24:31の「大きなラッパの響き」と重なっており、
 
 アッシリアやエジプトといった異邦人の国々から、「イスラエルの人々」が集められるという点も同じです。
 
 しかも、七十人訳でこの箇所を見ると、「ラッパ」の部分にはマタイの箇所と同じサルピンクスというギリシャ語が使われています。
 
 
七十人訳13節前半
 ~になると    かの日
(ラッパが)鳴る  ラッパ  大いなる
 

  ですから、主イエスがイザヤ27:13に基づいてマタイ24:31を語られた可能性は、十分に考えられるのです。
 
 しかし
 
 仮にそうだとしても、マタイ24:31のエクレクトスがユダヤ人信者だけだと、言い切れない理由があります。
 
 それはイザヤ27章の文脈です。
 
 イザヤ27章の「その日」の文脈がどこからはじまるかを辿っていくと、259からはじまっていることがわかります。
 
 
イザヤ25:6~9
6 万軍の主はこの山の上で万民のために、あぶらの多い肉の宴会、良いぶどう酒の宴会、髄の多いあぶらみとよくこされたぶどう酒の宴会を催される。
7 この山の上で、万民の上をおおっている顔おおいと、万国の上にかぶさっているおおいを取り除き、8 永久に死を滅ぼされる。神である主はすべての顔から涙をぬぐい、ご自分の民へのそしりを全地の上から除かれる。主が語られたのだ。
9 その日、人は言う。「見よ。この方こそ、私たちが救いを待ち望んだ私たちの神。この方こそ、私たちが待ち望んだ主。その御救いを楽しみ喜ぼう。」
 
 
 この箇所ではイスラエル人ではなく、「万民の救い」がテーマになっています。
 
 ちなみに、「万民」というのは「すべての人」のことではなく、「すべての民族」のことです。
 
 それは、「民」の部分にエスノスという民族を意味するギリシャ語が使われていることによってわかります。
 
 ですから、この箇所のテーマは、異邦人クリスチャンを含むすべての民族の救いなのです。
 
 その万民の救いが「その日」、すなわち、世の終わりの日に起こるとイザヤは預言しているわけです。
 
「その日」が患難期の初期や途中でないことは、主が「この山」、つまりエルサレムに来られてすべての民族のために祝宴を催すこと(6節)、
 
 同様に、「その日」に救いの神がエルサレムに現れること(9節)から、

「その日」が再臨の日であることがわかります(ゼカリヤ14章参照)
 
 また27章にも、「その日」が再臨の日であることを示す根拠が書かれています。
 

イザヤ27:1
その日、主は、鋭い大きな強い剣で、逃げ惑う蛇レビヤタン、曲がりくねる蛇レビヤタンを罰し、海にいるを殺される。
 
 
 イザヤ27:1には、「その日」に再臨の主が、竜に勝利することが書かれています。
 
 黙示録12:3、4、7、9には「竜」に関する言及があり、サタンを象徴していることが記されています(黙示録12:9)。
 
 実のところ、サタンが完敗して地獄に投げ入れられるのは、千年王国がはじまってからです(黙示録20:10)。
 
 しかし、その化身である「獣/反キリスト」が主に敗北するのは、再臨の時です(黙示録19:20~21、2テサロニケ2:8)。
 
 よって、このことからも、「その日」というのが再臨の日であることがわかります。
 
 ともあれ、イザヤ27:13の「その日」に、ユダヤ人を含むすべての民族の救いが起こることは確かです。

 そして、「その日」というのは、ラッパが鳴り響く日であり、ユダヤ人と異邦人のすべての信者がエルサレムで祝宴に預かり、主を礼拝する日なのです。
 
 
結論
 
 以上を総括して結論を出すと、

 イザヤ27:13だけに固執するなら、マタイ24:31のエクレクトスがユダヤ人信者だけだという可能性が出てきます。

 しかし、主イエスがイザヤ27:13だけに基づいてマタイ24:31を語ったと断定できません。
 
 仮に、そうだったとしても、イザヤ27章の「その日」に、ユダヤ人信者と異邦人信者の両方が救われることに変わりはありません。

 その日、信者全般がエルサレムで再臨の主を礼拝するのです。
 
 また、マタイがエクレクトスの単数形ではなく、複数形を使ったことを考慮するなら、

 御霊による霊感のうちに、信者全般を意図していたと考えるべきだと思います。
 
 終わり