コメントに対する応答
この記事の内容に対して、ある方が異論を唱えてこられましたので、それに対する応答です。
一般の読者の方には、あまり面白くないかもしれません。
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さて、本題に入ります。
私のコメントのポイントをミクさんが理解し損ねているため、これまでの話の流れを整理します。
一連の話の中で問題となっているのは、ヨハネ14:26の解釈です。
ヨハネ14:26
しかし、助け主、すなわち、父がわたしの名によってつかわされる聖霊は、あなたがたにすべてのことを教え、またわたしが話しておいたことを、ことごとく思い起させるであろう。
私はこの箇所を釈義した上で、こう結論づけました。
主イエスが公生涯で話したすべてのことを思い起こすことが可能なのは、十二弟子だけであると。
それゆえ私は、この箇所は「十二弟子にしか適用できない」と主張しました。
一方、ミクさんは、私の主張に対する一連のコメントの中で、こう言っておられます。
12使徒以外の信仰者は確かに御子と3年半共にいたわけではないので、御子のことば全ては知りません。
また、別のコメントではこう述べておられます。
使徒たちと同一の御霊を受けたからと言って、私たちが皆、聖書記者と同じ働きをするわけではないのです。
この点では、両者の見解が一致しているわけです。
ところがミクさんは、この箇所の適用を十二弟子だけに限定する事は、「聖霊の様々な働きをも否定する事に繋がってしまう」と異論を唱えてこられました。
こう考える以外、可能な選択肢はありません。
ちなみに、私の返信の中にある「もし、ミクさんたちの考えが正しいとしたら」という言葉は、このミクさんの見解を指しています。
つまり、私とミクさんは、
私:十二弟子にしか適用できない vs ミクさん:すべてのクリスチャンに適用できる
という見解の違いで討論しているのです。
ですから私は、この状況を背景として次のようにコメントしました。
このコメントの意味するところは、こうです。
ということは、初代の使徒たちが聖書を書いたり、教会の土台となる教えをしたように、
現代の私たちにも聖書が書けるし、教会の土台となる教えができることになってしまいます。
もちろん、このような考えは間違っています。
私たちは主エイスの公生涯に同伴しませんでしたから、主が語られたすべてのことを思い起こすことなどできないのです。
私は、ミクさんの見解の中にあるこの矛盾を浮き彫りにするために、つづけてこう質問しました。
ミクさんやミヤサカさんには、聖書が書けますか?公生涯における主のすべての教えを思い起こせるのですか?できないとしたら、どうしてですか?
ところがミクさんは、この質問に対して次のようにコメントしてこられました。
既に説明したとおり、ミクさんの意見に基づくなら、私たちも十二弟子と同じことを知っていることになるので、聖書も書けるし使徒的な教えもできることになるのです。
ミクさんの論理に基づくなら、そういう話になってしまうのです。
この矛盾をつくために尋ねた私の質問に対して、ミクさんは1コリントの聖霊の賜物の話を持ち出してこられました。
これは、意図的であろうとなかろうと、論理のすり替えであることに変わりありません。
それゆえ私は、改めてミクさんにお尋ねします。
私とミクさんは、「12使徒以外の信仰者は確かに御子と3年半共にいたわけではないので、御子のことば全ては知りません」という点で見解が一致しています。
この「 」内の事実に基づいて、私はヨハネ14:26は十二弟子にしか適用できないと考えています。
しかしミクさんは、私の見解に異論を唱えています。
つまりミクさんは、ヨハネ14:26はすべてのクリスチャンに適用できると考えおられるのです。
ミクさんは、聖霊からそのような啓示を受けた経験がおありだということですか?
主イエスが公生涯で話されたすべてのことを、ミクさんはご存知だということですか?
YESかNOで簡潔にお答えください。
ちなみに、YESと答えた場合、以下のご自身の見解に矛盾することになります。
使徒たちと同一の御霊を受けたからと言って、私たちが皆、聖書記者と同じ働きをするわけではないのです。
また、NOと答えた場合、ヨハネ14:26がすべてのクリスチャンに適用できるという見解を否定することになり、
論理的には私と同一の見解に立つことになります。