なぜキリストには罪が入らなかったのか?
聖書によると、すべての人間は罪を犯しました。
しかしイエス・キリストは、罪を持たずに生まれてきたと言われています。
100%人間であったにもかかわらず、なぜそれが可能だったのでしょうか?
カトリック教会の場合、マリアの「無原罪の御宿り」(以下)をその根拠とします。
神は、私たちと同じようにマリアをお造りになったのです。しかし、神は彼女を特別な目的のために、特別な祝福を与えてお造りになりました。神は、マリアを神ご自身の御子(世の救い主)の母親にするためにお造りになったのですが、彼女は生まれた瞬間からすべての罪のけがれを免れ、この偉大な光栄を受けるにふさわしいかたでした。
しかし私たちプロテスタントは、ローマ書などを根拠としてマリアの「無原罪の御宿り」を否定します。
ローマ5:12
そういうわけで、ちょうどひとりの人によって罪が世界にはいり、罪によって死がはいり、こうして死が全人類に広がったのと同様に、――それというのも全人類が罪を犯したからです。
つまり、人間である以上、罪の性質を持って生まれてくる宿命にあるわけです。
それゆえマリアにも罪があった、と私たちは結論づけます。
しかし、イエス・キリストにはこの原則を適用しません。
●救世主の無罪性
そもそも、キリストに無罪性が必要な理由は何でしょうか?
救い主には、罪があってはいけないのでしょうか?
RC・スプロールは次のように説明しています。
キリストの無罪性は、単に信者の模範となるためだけではない。
私たちの救いのために、根本的に必要である。
もしキリストが「傷のない」羊でなかったとしたら、
キリストは他人を救えなかったばかりか、自分自身に救い主が必要であったことになる。
十字架上でキリストが負った無数の罪は、完璧な生贄を必要とした。
そのような生贄は、罪のない者によって捧げられなければならかった。
このように救い主の無罪性は、人類の救いにおいて必須条件でした。
出エジプト記12:5
あなたがたの羊は傷のない一歳の雄でなければならない。それを子羊かやぎのうちから取らなければならない。
この御言葉にあるとおり、神が求めた生贄は、「傷のない」(=罪のない)羊でした。
もしキリスト自身に罪があった場合、「自分のために」生贄が必要でした。
へブル9:7
第二の幕屋には、大祭司だけが年に一度だけはいります。そのとき、血を携えずにはいるようなことはありません。その血は、自分のために、また、民が知らずに犯した罪のためにささげるものです。
●無罪性の理由
では、イエス・キリストに罪が入らなかった理由は何でしょうか?
つまり、イエスさまの神としての側面を根拠にしているわけです。
もう一つの根拠は、前出のローマ書の箇所から導き出されます。
ローマ5:12
そういうわけで、ちょうどひとりの人によって罪が世界にはいり、罪によって死がはいり、こうして死が全人類に広がったのと同様に、――それというのも全人類が罪を犯したからです。
「ひとりの人によって罪が…はいり」とあるとおり、アダムを通して罪が入りました。
イエスさまに罪の性質が遺伝しなかったのは、これが理由だと考えられています。
ローマ8:3b
神はご自分の御子を、罪のために、罪深い肉と同じような形でお遣わしになり、肉において罪を処罰されたのです。
この箇所を注意深く読むと、「罪深い肉と同じような形」と書かれています。
ギリシャ語辞典のホモイオマの説明には、こう書かれています。
homoíōma ("resemblance") does not require one element of a comparison to be derived from the other; indeed, it can be wholly separate from it.
ホモイオマ(類似)は、比較対照されるものの要素を一つも必要としない。それとは完全に分離することができる。
そういうわけで、「傷もなく汚れもない小羊」となることができました(1ペテロ1:19)。
創世記3:15に「おまえの子孫と女の子孫との間に」とあり、「男の子孫」と言われていないのは、
罪の伝播が女ではなく男によるためだったと言われています。
創世記3:15
わたしは、おまえと女との間に、また、おまえの子孫と女の子孫との間に、敵意を置く。彼は、おまえの頭を踏み砕き、おまえは、彼のかかとにかみつく。
●あとがき
イエス・キリストには罪がありませんでした。
そのようなイエスさまが、私たちの身代わりに罪を負った。
それは、言葉に尽くせない苦痛であったはずです。
裏を返せば、父なる神は、私たち一人ひとりをそれほど愛しておられるということです。
今更かもしれませんが、父なる神の無条件の愛とイエスさまの犠牲的な愛に感謝せずにはおれません。
ヨハネ3:16
神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。
マルコ10:45
人の子が来たのも、仕えられるためではなく、かえって仕えるためであり、また、多くの人のための、贖いの代価として、自分のいのちを与えるためなのです。
終わり