ダビデの日記

自分が学んだ聖書の教えに関するブログ

イエスが行った7つのしるしとその意味 その2

 
 ベテスダの池での癒し
 
ヨハネ5:19
その後、ユダヤ人の祭りがあって、イエスエルサレムに上られた。
さて、エルサレムには、羊の門の近くに、ヘブル語でベテスダと呼ばれる池があって、五つの回廊がついていた。
その中に大ぜいの病人、盲人、足なえ、やせ衰えた者が伏せっていた。
そこに、三十八年もの間、病気にかかっている人がいた。
エスは彼が伏せっているのを見、それがもう長い間のことなのを知って、彼に言われた。「よくなりたいか。」
病人は答えた。「主よ。私には、水がかき回されたとき、池の中に私を入れてくれる人がいません。行きかけると、もうほかの人が先に降りて行くのです。」
エスは彼に言われた。「起きて、床を取り上げて歩きなさい。」
すると、その人はすぐに直って、床を取り上げて歩き出した。ところが、その日は安息日であった。
 
 
 癒された男性は、38年の間、独力でよくなろうと試みていた。
 
 しかし、彼の努力は徒労に終わっていた。
 
 人は律法の行いや善行では救いを得られない。
 
 しかし、「起きて、床を取り上げて歩きなさい」という主の一言で男性は癒された。
 
 これは、恵みによる無条件の救いを象徴している。
 
 人が真に必要としているのは、恵みによる救いとそれを提供する救い主である。
 
 
4 五千人の給食
 
ヨハネ6:1~13
1 その後、イエスガリラヤの湖、すなわち、テベリヤの湖の向こう岸へ行かれた。
2 大ぜいの人の群れがイエスにつき従っていた。それはイエスが病人たちになさっていたしるしを見たからである。
3 イエス1に登り、弟子たちとともにそこにすわられた。
4 さて、ユダヤ人の祭りである過越2が間近になっていた。
エスは目を上げて、大ぜいの人の群れがご自分のほうに来るのを見て、ピリポに言われた。「どこからパンを買って来て、この人々に食べさせようか。」
6 もっとも、イエスは、ピリポをためしてこう言われたのであった。イエスは、ご自分では、しようとしていることを知っておられたからである。
7 ピリポはイエスに答えた。「めいめいが少しずつ取るにしても、二百デナリのパンでは足りません。」
8 弟子のひとりシモン・ペテロの兄弟アンデレがイエスに言った。
9 「ここに少年が大麦のパンを五つと小さい魚を二匹持っています。しかし、こんなに大ぜいの人々では、それが何になりましょう。」
10 イエスは言われた。「人々をすわらせなさい。」その場所には草が多かった。そこで男たちはすわった。その数はおよそ五千人であった。
11 そこで、イエスはパンを取り、感謝をささげてから、すわっている人々に分けてやられた。また、小さい魚も同じようにして、彼らにほしいだけ分けられた。
12 そして、彼らが十分食べたとき、弟子たちに言われた。「余ったパン切れを、一つもむだに捨てないように集めなさい。」
13 彼らは集めてみた。すると、大麦のパン五つから出て来たパン切れを、人々が食べたうえ、なお余ったもので十二のかごがいっぱいになった。
 
1 NETバイブルのスタディー・ノートによると、3節の「山」というのはゴラン高原
2 5:1の「ユダヤ人の祭り」がAD31年のペンテコステのため、4節の「過越」はAD32年の過越で十字架刑の1年前。
 
 
 ちなみに、並行記事のマルコ6:41を原文で見てみると、パンがどの時点で増えたかがわかる書き方をされている。
 
 
マルコ6:41
するとイエスは、五つのパンと二匹の魚を取り、天を見上げて祝福を求め、パンを裂き、人々に配るように弟子たちに与えられた。また、二匹の魚もみなに分けられた。
 
 
「与えられた」と訳されているギリシャ語が、未完了過去形という形式で書かれている。
 
 未完了過去形とは、次のような意味。
 

ギリシャ語の未完了形は、過去の動作の継続、または反復を意味します。意味としては「(いつも)~していた」です。(強調はダビデ
 
 
 
 このことからわかるのは、イエスさまがパンを裂いて、繰り返し弟子たちに与えていたということ。
 
 つまり、パンが増えたのは、イエスさまの手の中にあったときだということ。
 
 このように、五千人の給食は、主を求める者のために主が超自然的に必要を満たしてくださることを象徴している。