イエスが行った7つのしるしとその意味 その2
3 ベテスダの池での癒し
さて、エルサレムには、羊の門の近くに、ヘブル語でベテスダと呼ばれる池があって、五つの回廊がついていた。
その中に大ぜいの病人、盲人、足なえ、やせ衰えた者が伏せっていた。
そこに、三十八年もの間、病気にかかっている人がいた。
イエスは彼が伏せっているのを見、それがもう長い間のことなのを知って、彼に言われた。「よくなりたいか。」
病人は答えた。「主よ。私には、水がかき回されたとき、池の中に私を入れてくれる人がいません。行きかけると、もうほかの人が先に降りて行くのです。」
イエスは彼に言われた。「起きて、床を取り上げて歩きなさい。」
すると、その人はすぐに直って、床を取り上げて歩き出した。ところが、その日は安息日であった。
癒された男性は、38年の間、独力でよくなろうと試みていた。
しかし、彼の努力は徒労に終わっていた。
人は律法の行いや善行では救いを得られない。
しかし、「起きて、床を取り上げて歩きなさい」という主の一言で男性は癒された。
これは、恵みによる無条件の救いを象徴している。
人が真に必要としているのは、恵みによる救いとそれを提供する救い主である。
4 五千人の給食
イエスは目を上げて、大ぜいの人の群れがご自分のほうに来るのを見て、ピリポに言われた。「どこからパンを買って来て、この人々に食べさせようか。」
7 ピリポはイエスに答えた。「めいめいが少しずつ取るにしても、二百デナリのパンでは足りません。」
8 弟子のひとりシモン・ペテロの兄弟アンデレがイエスに言った。
9 「ここに少年が大麦のパンを五つと小さい魚を二匹持っています。しかし、こんなに大ぜいの人々では、それが何になりましょう。」
10 イエスは言われた。「人々をすわらせなさい。」その場所には草が多かった。そこで男たちはすわった。その数はおよそ五千人であった。
11 そこで、イエスはパンを取り、感謝をささげてから、すわっている人々に分けてやられた。また、小さい魚も同じようにして、彼らにほしいだけ分けられた。
12 そして、彼らが十分食べたとき、弟子たちに言われた。「余ったパン切れを、一つもむだに捨てないように集めなさい。」
13 彼らは集めてみた。すると、大麦のパン五つから出て来たパン切れを、人々が食べたうえ、なお余ったもので十二のかごがいっぱいになった。
注
ちなみに、並行記事のマルコ6:41を原文で見てみると、パンがどの時点で増えたかがわかる書き方をされている。
マルコ6:41
「与えられた」と訳されているギリシャ語が、未完了過去形という形式で書かれている。
未完了過去形とは、次のような意味。
このことからわかるのは、イエスさまがパンを裂いて、繰り返し弟子たちに与えていたということ。
つまり、パンが増えたのは、イエスさまの手の中にあったときだということ。
このように、五千人の給食は、主を求める者のために主が超自然的に必要を満たしてくださることを象徴している。