ダビデの日記

自分が学んだ聖書の教えに関するブログ

パウロ書簡におけるストイケイオン その3


*一部に加筆・修正あり。
 
 最後に取り上げる学説は、「宗教的原則説」です(英語:Religious Principles)。
 
 ガラテヤ教会やコロサイ教会には、律法の誤用や哲学の影響、異邦人発祥の諸宗教の教えが入り込んでいました。 
 
 宗教的原則説によると、それらを総括したものがストイケイオンであり、「宗教的原則」です。
 
 ここで新改訳の訳文をベースにして、ストイケイオンの部分に「宗教的原則」を挿入してみます。
 
 
ガラテヤ4:2~3
父の定めた日までは、後見人や管理者の下にあります。私たちもそれと同じで、まだ小さかった時には、この世の宗教的原則の下に奴隷となっていました。
 
ガラテヤ4:9
ところが、今では神を知っているのに、いや、むしろ神に知られているのに、どうしてあの無力、無価値の宗教的原則に逆戻りして、再び新たにその奴隷になろうとするのですか。
 
コロサイ2:8
あのむなしい、だましごとの哲学によってだれのとりこにもならぬよう、注意しなさい。そのようなものは、人の言い伝えによるものであり、この世に属する宗教的原則によるものであって、キリストに基づくものではありません。
 
コロサイ2:2022
もしあなたがたが、キリストとともに死んで、この世の宗教的原則から離れたのなら、どうして、まだこの世の生き方をしているかのように、「すがるな。味わうな。さわるな。」というような定めに縛られるのですか。そのようなものはすべて、用いれば滅びるものについてであって、人間の戒めと教えによるものです。
 
 
前提 
 
 宗教的原則説を主著する学者の中には、「宗教的原則」に「律法」を含める方々もいます。
 
 しかし、ブログ主ダビデは、「律法」を含めない立場を取ります。
 
 理由は、その1の「問題点」で述べたとおりです。
 
 ただし、律法の誤用、あるいは誤用された律法は含めます。
 
 偽教師が持ち込んだ律法主義は、律法の誤用以外の何ものでもないからです。
 
 この場合、誤用された律法の出所はもはや神ではなく、人間、すなわち「この世」であると定義づけます(ガラテヤ4:3、コロサイ2:8、20)。
 
 
宗教的原則説の整合性
 
 上述のとおり、私は「宗教的原則」に「律法」を含めません。
 
 しかし、その場合でも、両者は入れ替え可能です。
 
 試しに、ガラテヤ3章終盤から4章初めに至る文脈の流れを見てみましょう。
 
 
ガラテヤ3:23
信仰が現われる以前には、私たちは律法の監督の下に置かれ、閉じ込められていました
 
ガラテヤ4:3
私たちもそれと同じで、まだ小さかった時には、この世の宗教的原則の下に奴隷となっていました。
 
ガラテヤ4:5
これは律法の下にある者を贖い出すためで、その結果、私たちが子としての身分を受けるようになるためです。
 
ガラテヤ4:9
ところが、今では神を知っているのに、いや、むしろ神に知られているのに、どうしてあの無力、無価値の宗教的原則に逆戻りして、再び新たにその奴隷になろうとするのですか。
 
 
 それでは、「律法」と「宗教的原則」を入れ替えてみましょう。
 
 
ガラテヤ3:23
信仰が現われる以前には、私たちは宗教的原則の監督の下に置かれ、閉じ込められていました
 
ガラテヤ4:3
私たちもそれと同じで、まだ小さかった時には、この世の律法の下に奴隷となっていました。
 
ガラテヤ4:5
これは宗教的原則の下にある者を贖い出すためで、その結果、私たちが子としての身分を受けるようになるためです。
 
ガラテヤ4:9
ところが、今では神を知っているのに、いや、むしろ神に知られているのに、どうしてあの無力、無価値の律法に逆戻りして、再び新たにその奴隷になろうとするのですか。
 
 
 いかがでしょうか?
 
 私としては、文脈的な矛盾を感じません。
 
 イスラエルの律法説と同様に、入れ替え可能であることがおわかりいただけると思います。
 
 若干の引っかかりを感じる箇所として、ガラテヤ4:9の「無力、無価値」な律法という描写があります。
 
 しかし、これは従来の新改訳の訳語の問題で、最新版では「弱くて貧弱な」と修正されています。
 
 キリストが現れたことにより、律法の多くの部分はすでに無効とされました。
 
 それゆえ、律法が「弱くて貧弱な」ものとなったことに間違いはありません。
 

その他の整合性
 
 次に、宗教的原則説におけるその他の整合性を見ていきます。
 
 ガラテヤ4:9において、「神でない神々」を離れたクリスチャンたちが宗教的原則に「逆戻り」するという点でも矛盾は見られません
 
 悪霊説と同様に、論理的整合性が見られます。
 
 なぜなら、「神でない神々」を崇拝していたということは、何らかの宗教的原則を信じていたことを意味するからです。
 
 また、哲学の誕生に宗教的原則が影響したとしても、何ら矛盾はありません(コロサイ2:8)。
 
 宗教哲学という言葉があるくらいですから。
 
 最後になりますが、「すがるな。味わうな。さわるな。」といった定めが、宗教的原則の一部であるという点においても、一切矛盾はありません(コロサイ2:2021)。
 
 すべての宗教には、必ず何らかの掟や戒めがあるからです。
 
 
結論
 
 これまで述べてきたとおり、ストイケイオンの指すものが「宗教的原則」であると理解した場合、様々な点で整合性が見られます。
 
 それに加えて、イスラエルの律法説や悪霊説に見られた問題点が解消されることがわかります。
 
 よって、この宗教的原則説が最も適切な立場であると思われます。
 
 おわり