新改訳2017と従来版におけるパルースィアの比較
新改訳2017を調べてみたところ、ギリシャ語パルースィアの訳語が改善されていることに気づきました。
従来の新改訳では、パルースィアは「キリストの再臨のとき」「主が再び来られるとき」などと意訳されていましたが、
最新版では「来臨」と直訳されるようになったからです。
●パルースィアの意味
複数の意味がありますが、主な意味は「来臨」です。
来ていること、到来、来訪、(国王や高官が土地を訪れることも).①(その場に)来ていること、到着、臨席;不在に対してその場に(一緒に)いること、Ⅰコリ16:17等;Ⅱコリ10:10 へ パルースィア トウ ソーマトス、身をもっての臨席は=直接個人的に会って受ける印象は.②終末論的用語として(イエスとパウロによる用例で)栄光のメシアの到来、来臨、出現、マタ24:3~39、Ⅰテサ2:19等;「不法の者」の「到来、出現」にも、Ⅱテサ2:9.
(P448~P449)
このように、パルースィア自体には「再びの来臨」という意味はありません。
ですから「来臨」と直訳されたことで、ギリシャ語本来の意味が訳出されたと言えます。
●パウロ書簡における終末論的用例
パルースィアが最も多く使われているのはパウロ書簡で、全部で14回使われています。
その中で、終末論的な文脈でパルースィアが使われている箇所を抜き出しました(強調はブログ主)。
1コリント15:23
しかし、それぞれに順序があります。まず初穂であるキリスト、次にその来臨のときにキリストに属している人たちです。
*従来の新改訳では「キリストの再臨のとき」
1テサロニケ4:15
私たちは主のことばによって、あなたがたに伝えます。生きている私たちは、主の来臨まで残っているなら、眠った人たちより先になることは決してありません。
*従来の新改訳では「主が再び来られるとき」
1テサロニケ5:23
平和の神ご自身が、あなたがたを完全に聖なるものとしてくださいますように。あなたがたの霊、たましい、からだのすべてが、私たちの主イエス・キリストの来臨のときに、責められるところのないものとして保たれていますように。
*従来版も同じ
Ⅱテサロニケ2:1
*従来の新改訳では「再び来られること」
Ⅱテサロニケ2:8
*従来版も同じ
このように、「来臨」という名詞的表現で統一されています。
これにより、聖書研究に適した訳文となったと思います。
●パルースィアと携挙論
途中からテーマが変わって申し訳ないのですが、ここで患難前携挙説の誤りを指摘したいと思います。
特にご注目いただきたいのは、Ⅱテサロニケ2:1と同2:8です。
2:1の「私たちが主のみもとに集められること」は、いわゆる携挙を指しています。
2:1以降の文脈でわかるとおり、携挙はキリストの「来臨」の際に起こります。
患難前携挙説に立つ方々は、この「来臨」を勝手に2段階に区切ります。
1段階目は「空中再臨」で、この時に「携挙」が起こると教えます。
そして、2段階目が「地上再臨」です。
この患難前携挙説の立場で見た場合、2:1の「来臨」は「空中再臨」と解釈されます。
実例1
*キリストが再び来られる…多くの人はこう聞くと『再臨』ということばを思い浮かべるでしょう。しかし、パウロは1テサロニケ人への手紙4:16~17で『空中再臨=携挙』について話しています。ここでも続いて『私たちが主のみもとに集められる』と言っているので、時系列を考えるとここでの『キリストが再び来られる』とは、『空中再臨』を指していることがわかります。
引用元:サザエのお裾分け
しかし、2:8まで読み進んだときに問題が発生します。
患難前携挙説によると、「不法の者」(=反キリスト)が殺されるのは空中再臨ではなく、地上再臨での出来事だからです。
(元々「空中再臨」「地上再臨」といった区別は聖書にありません。再臨は一度だけです)
実例2
Ⅱテサロニケ2:8―その時になると、不法の人が現れますが、主は御口の息をもって彼を殺し、来臨の輝きをもって滅ぼしてしまわれます。
*その時…将来、必ず起こることを意味することば。ここでは患難時代中期のことを指します。
*来臨の輝き…患難時代の最後に地上再臨したキリストにより、反キリストは殺されます。
引用元:サザエのお裾分け
●患難前携挙説の明白な曲解
皆さん、お気づきのことと思いますが、念のために説明します。
実例1で、ブロガーの方は『キリストが再び来られる』とは、『空中再臨』を指していると説明しています。
これは聖書の曲解以外の何ものでもありません。
患難前携挙説の誤りを覆い隠すために、パルースィアを「空中再臨」としているのです。
しかし、パウロは2:8でまったく同じパルースィアを使って、いわゆる「地上再臨」の話をしています。
先述したとおり、パルースィアに「空中再臨」や「地上再臨」といった区別はまったくありません。
2テサロニケ2:1のパルースィアも、2:8のパルースィアも、どちらも「来臨」(地上再臨)を指しています。
●根本的な誤り
それでは、患難前携挙説のどこに問題があるのでしょうか?
それは1テサロニケ4:15の解釈です。
ブロガーさんは、実例1で次のように述べています。
パウロは1テサロニケ人への手紙4:16~17で『空中再臨=携挙』について話しています。
この解釈が、そもそもの間違いです。
1テサロニケ4:15
私たちは主のことばによって、あなたがたに伝えます。生きている私たちは、主の来臨まで残っているなら、眠った人たちより先になることは決してありません。
上記に「来臨」(パルースィア)とあるとおり、パウロは初めから、いわゆる「地上再臨」の話をしているのです。
「空中再臨」ではありません。
携挙が起こるのは、「来臨=地上再臨」の時です。
そして、クリスチャンは「主の来臨まで残っている」とパウロは述べています。
つまり、教会が患難前に携挙されることはありません。
キリストが再臨されるまで、地上に残っているのです。
このように、患難前携挙説は聖書を捻じ曲げた人工的な作り話です。
あくまでも聖書のほうを信じましょう。
おわり