ダビデの日記

自分が学んだ聖書の教えに関するブログ

新改訳2017と従来版におけるパルースィアの比較


 
 新改訳2017を調べてみたところ、ギリシャ語パルースィアの訳語が改善されていることに気づきました。
 
 従来の新改訳では、パルースィアは「キリストの再臨のとき」「主が再び来られるとき」などと意訳されていましたが、
 
 最新版では「来臨」と直訳されるようになったからです。
 
 
パルースィアの意味
 
 ギリシャ語のパルースィアは、新約聖書で24回使われています。
 
 複数の意味がありますが、主な意味は「来臨」です。
 
 以下に、織田昭著「新約聖書ギリシア語小辞典」から引用します。
 
 
来ていること、到来、来訪、(国王や高官が土地を訪れることも).①(その場に)来ていること、到着、臨席;不在に対してその場に(一緒に)いること、Ⅰコリ1617等;Ⅱコリ1010 へ パルースィア トウ ソーマトス、身をもっての臨席は=直接個人的に会って受ける印象は.②終末論的用語として(イエスパウロによる用例で)栄光のメシアの到来、来臨、出現、マタ24339、Ⅰテサ219等;「不法の者」の「到来、出現」にも、Ⅱテサ29.
                               (P448P449
 
 
 このように、パルースィア自体には「再びの来臨」という意味はありません。
 
 ですから「来臨」と直訳されたことで、ギリシャ語本来の意味が訳出されたと言えます。
 
 
パウロ書簡における終末論的用例
 
 パルースィアが最も多く使われているのはパウロ書簡で、全部で14回使われています。
 
 その中で、終末論的な文脈でパルースィアが使われている箇所を抜き出しました(強調はブログ主)。
 
 
1コリント15:23
しかし、それぞれに順序があります。まず初穂であるキリスト、次にその来臨のときにキリストに属している人たちです。
 
*従来の新改訳では「キリストの再臨のとき」
 
1テサロニケ4:15
私たちは主のことばによって、あなたがたに伝えます。生きている私たちは、主の来臨まで残っているなら、眠った人たちより先になることは決してありません。
 
*従来の新改訳では「主が再び来られるとき」
 
1テサロニケ5:23
平和の神ご自身が、あなたがたを完全に聖なるものとしてくださいますように。あなたがたの霊、たましい、からだのすべてが、私たちの主イエス・キリスト来臨のときに、責められるところのないものとして保たれていますように。
 
*従来版も同じ
 
Ⅱテサロニケ2:1
さて兄弟たち。私たちの主イエス・キリスト来臨と、私たちが主のみもとに集められることに関して、あなたがたにお願いします。
 
*従来の新改訳では「再び来られること」
 
Ⅱテサロニケ2:8
その時になると、不法の者が現れますが、主イエスは彼を御口の息をもって殺し、来臨の輝きをもって滅ぼされます。
 
*従来版も同じ
 

 このように、「来臨」という名詞的表現で統一されています。
 
 これにより、聖書研究に適した訳文となったと思います。
 
 
パルースィアと携挙論
 
 途中からテーマが変わって申し訳ないのですが、ここで患難前携挙説の誤りを指摘したいと思います。
 
 特にご注目いただきたいのは、Ⅱテサロニケ2:1と同2:8です。
 
 2:1の「私たちが主のみもとに集められること」は、いわゆる携挙を指しています。
 
 2:1以降の文脈でわかるとおり、携挙はキリストの「来臨」の際に起こります。
 
 患難前携挙説に立つ方々は、この「来臨」を勝手に2段階に区切ります。
 
 1段階目は「空中再臨」で、この時に「携挙」が起こると教えます。
 
 そして、2段階目が「地上再臨」です。
 
 この患難前携挙説の立場で見た場合、2:1の「来臨」は「空中再臨」と解釈されます。
 
 実例1
 
 Ⅱテサロニケ2:1―さて兄弟たちよ。私たちのイエス・キリストが再び来られることと、私たちが主のみもとに集められることに関して、あなたがたにお願いすることがあります。
 
キリストが再び来られる…多くの人はこう聞くと『再臨』ということばを思い浮かべるでしょう。しかし、パウロは1テサロニケ人への手紙4:16~17で『空中再臨=携挙』について話しています。ここでも続いて『私たちが主のみもとに集められる』と言っているので、時系列を考えるとここでの『キリストが再び来られる』とは、『空中再臨』を指していることがわかります。
                           引用元:サザエのお裾分け
 
 しかし、2:8まで読み進んだときに問題が発生します。
 
 患難前携挙説によると、「不法の者」(=反キリスト)が殺されるのは空中再臨ではなく、地上再臨での出来事だからです。
 
(元々「空中再臨」「地上再臨」といった区別は聖書にありません。再臨は一度だけです)
 
 実例2
 
Ⅱテサロニケ2:8―その時になると、不法の人が現れますが、主は御口の息をもって彼を殺し、来臨の輝きをもって滅ぼしてしまわれます。
 
その時…将来、必ず起こることを意味することば。ここでは患難時代中期のことを指します。
 
来臨の輝き患難時代の最後に地上再臨したキリストにより、反キリストは殺されます
                          引用元:サザエのお裾分け
 
患難前携挙説の明白な曲解
 
 皆さん、お気づきのことと思いますが、念のために説明します。
 
 実例1で、ブロガーの方は『キリストが再び来られる』とは、『空中再臨』を指していると説明しています。
 
 これは聖書の曲解以外の何ものでもありません。
 
 患難前携挙説の誤りを覆い隠すために、パルースィアを「空中再臨」としているのです。
 
 しかし、パウロ2:8でまったく同じパルースィアを使って、いわゆる「地上再臨」の話をしています。
 
 ブロガーさんとパウロのどちらが正しいかと問われれば、パウロが正しいに決まっています。
 
 先述したとおり、パルースィアに「空中再臨」や「地上再臨」といった区別はまったくありません。
 
 2テサロニケ2:1のパルースィアも、2:8のパルースィアも、どちらも「来臨」(地上再臨)を指しています。
 
 
根本的な誤り
 
 それでは、患難前携挙説のどこに問題があるのでしょうか?
 
 それは1テサロニケ4:15の解釈です。
 
 ブロガーさんは、実例1で次のように述べています。
 
パウロは1テサロニケ人への手紙4:16~17で『空中再臨=携挙』について話しています。
 
 この解釈が、そもそもの間違いです。
 

1テサロニケ4:15
私たちは主のことばによって、あなたがたに伝えます。生きている私たちは、主の来臨まで残っているなら、眠った人たちより先になることは決してありません。
 
 
 上記に「来臨」(パルースィア)とあるとおり、パウロは初めから、いわゆる「地上再臨」の話をしているのです。
 
「空中再臨」ではありません。
 
 携挙が起こるのは、「来臨=地上再臨」の時です。
 
 そして、クリスチャンは「主の来臨まで残っている」とパウロは述べています。
 
 つまり、教会が患難前に携挙されることはありません。
 
 キリストが再臨されるまで、地上に残っているのです。
 
 このように、患難前携挙説は聖書を捻じ曲げた人工的な作り話です。
 
 あくまでも聖書のほうを信じましょう。
 
 おわり