ダビデの日記

自分が学んだ聖書の教えに関するブログ

渡辺明日香の携挙論の誤り


 久しぶりに、渡辺明日香さんのブログを見ました。
 
 この記事では、渡辺さんの携挙論が正しいか否かを考えたいと思います。
 

●検証1

 渡辺さんは次のように言っています。 

Ⅰテサロニケ4:16 主は、号令と、御使いのかしらの声と、神のラッパの響きのうちに、ご自身天から下って来られます。それからキリストにある死者が、まず初めによみがえり、4:17 次に、生き残っている私たちが、たちまち彼らといっしょに雲の中に一挙に引き上げられ、空中で主と会うのです。このようにして、私たちは、いつまでも主とともにいることになります。4:18 こういうわけですから、このことばをもって互いに慰め合いなさい。

 18節を見れば、携挙があることで慰め合いなさい、と書いてあります。もし患難の中で、あるいはその後で携挙があるとしたら、それが慰めになりえるでしょうか。
 
 
 
もし患難の中で、あるいはその後で携挙があるとしたら、それが慰めになりえるでしょうか 
 
 このような疑問は、患難前携挙説が前提になっているために出てくるものです。
 
 この手紙におけるパウロの主張を理解していれば、たとい教会が患難を通過するとしても、携挙/再臨が慰めになることがはっきりとわかります。
 
 3章を見ると、パウロは繰り返し「苦難」や「患難」という言葉を使っています。
 
 3節では、「私たちはこのような苦難に会うように定められている」と述べています。
 
 ですから、パウロの考えでは、苦難や患難は回避できないものなのです。
 
 それが証拠に、4節では「私たちは苦難に会うようになる、と前もって言っておいた」と述べています。
 
 ちなみに、3節の「苦難」という言葉は、マタイ24章の「苦難」と同じスリプシスというギリシャ語です。
 
 
マタイ24:21
そのときには、世の初めから、今に至るまで、いまだかつてなかったような、またこれからもないような、ひどい苦難があるからです。
 
 
 また7節でパウロは、「私たちはあらゆる苦しみと患難のうちにも…慰めを受けました」と言っています。
 
 この箇所で「患難」と訳されているのもスリプシスです。
 
 つまり、患難の中にあっても慰めを受けられる、というのがパウロの神学なのです。
 
 このことからわかるのは、渡辺さん神学が聖書と真逆であるということです。
 
 
●検証2
 
 次に渡辺さんは、以下のように言います。
 
Ⅰテサロニケ5:3 人々が「平和だ。安全だ。」と言っているそのようなときに、突如として滅びが彼らに襲いかかります。ちょうど妊婦に産みの苦しみが臨むようなもので、それをのがれることは決してできません。5:4 しかし、兄弟たち。あなたがたは暗やみの中にはいないのですから、その日が、盗人のようにあなたがたを襲うことはありません。

 このみことばを素直に読むなら、患難が私達を盗人のように襲う事はないと信じることができます。(強調はダビデ
 
 

このみことばを素直に読むなら、患難が私達を盗人のように襲う事はないと信じることができます
 
 この解釈の問題点は、パウロが「その日」と言っているにもかかわらず、渡辺さんはそれを「患難」に言い替えていることです。
 
 つまり、渡辺さんは「みことばを素直に」読んでいないのです。
 
「その日」とは、1テサ5:2節の「主の日」のことを指しています。
 
 そして「主の日」とは、キリストの地上再臨によってはじまる千年王国のことです。

 患難期のことではありません。
 
 それは、次の箇所から明らかです。
 
 
ゼカリヤ14:14
見よ。主の日が来る。その日、あなたから分捕った物が、あなたの中で分けられる。
わたしは、すべての国々を集めて、エルサレムを攻めさせる。町は取られ、家々は略奪され、婦女は犯される。町の半分は捕囚となって出て行く。しかし、残りの民は町から断ち滅ぼされない。
主が出て来られる。決戦の日に戦うように、それらの国々と戦われる。
その日、主の足は、エルサレムの東に面するオリーブ山の上に立つ
 
 
●まとめ
 
 このように、渡辺さんは、聖書を素直に読んでいません。

 かえって、患難前携挙説の眼鏡で読んでいます

 そのために、渡辺さんの携挙論は、聖書と大きく食い違っています。
 
 終わり