ロゴスの永遠性と文語訳の神技 ヨハネ1:1
最近、ひょんなことから「日本聖書神学校」のウエブを見る機会がありました。
その際、以下の説明文を読みました。
「あった」という訳は、今の時点とは無関係な過去に、「言」が存在したようにも受け取れます。
しかし、ここは「ある」という動詞の未完了形で書かれており、過去から今も継続する事柄を表現しています。
この短い一文は、「創世記の天地創造の初めから、いま私たちがいる現代まで、言はあり続けている」という意味を持っています。
この意味は、ギリシア語の文法を学んで初めて理解できます。文語訳では、そのニュアンスを伝えようと「太初に言葉あり」となっていました。
引用元:日本聖書神学校・ギリシャ語講座
口語訳・新共同訳・聖書協会共同訳
初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。
文語訳
太初に言あり、言は神と偕にあり、言は神なりき。
説明文にあるとおり、邦語訳の多くは「言があった」と訳しています。
それに対して文語訳は、「言あり」と現在形で訳しています。
現在形で訳した理由は説明文のとおりですが、ギリシャ語の未完了過去形についてもう少し詳しい説明を見てみましょう。
ギリシャ語の未完了形は、過去の動作の継続、または反復を意味します。意味としては「(いつも)~していた」です。継続とは動作が進行している状態を示します。ある場合は、反復的・習慣的な動作を意味します。
引用元:牧師の書斎
上記のとおり、未完了形は過去における動作の継続を示す表現方法で、「(いつも)~していた」という含意を持ちます。
つまり、天地創造の初めからロゴスなるキリストは常に存在し続けていた、ということです。
文語訳はこの永続的なニュアンスを訳出して「太初に言あり」としました。
これは現代の日本語では難しいのではないでしょうか。
試しに、文語訳を現代語に置き換えてみましょう。
「太初に言がある。言は神と偕にある。言は神であった。」
なんだかしっくりきません。
「太初に」という大昔を表す副詞と「~がある」という現在形の言葉が不釣り合いです。
しかし、文語ですと見事に成り立ちます。
太初に言あり、言は神と偕にあり、言は神なりき。
これは文語訳ならではの神技ではないでしょうか。
「言」が古の過去から現在に至るまで存在し続けていること-つまり、ロゴスの永遠性-が巧妙に表現されています。
これならヨハネの思いに近いのではないでしょうか。
文語訳は流石ですね。
おわり