原文における微妙なニュアンスと聖書解釈 ルカ10:18
原文における動詞の時制に注意を向けると、聖書筆者の微妙なニュアンスを理解する助けになります。
ルカ10:18は、その微妙なニュアンスが聖書理解の重要な鍵となっています。
新共同訳
イエスは言われた。「わたしは、サタンが稲妻のように天から落ちるのを見ていた。
聖書協会共同訳
新改訳
イエスは言われた。「わたしが見ていると、サタンが、いなずまのように天から落ちました。
新改訳2017
イエスは彼らに言われた。「サタンが稲妻のように天から落ちるのを、わたしは見ました。
今回のポイントは、「見ていた/見ていると/見ました」の部分にあります。
未完了形という言葉を、最近どこかで目にしませんでしたか?
ギリシャ語の未完了形は、過去の動作の継続、または反復を意味します。意味としては「(いつも)~していた」です。継続とは動作が進行している状態を示します。ある場合は、反復的・習慣的な動作を意味します。
引用元:牧師の書斎
そのニュアンスを訳出しているものが、良訳であることになります。
そういうわけで、新改訳2017を除く各邦語訳は、未完了形にある継続のニュアンス(~していた)を訳出できていると思います。
新改訳2017の場合、「見ました」と訳されているので、どちらかというとアオリスト過去形のような訳文になっています。
最新版なのに残念です。
●未完了形と聖句の解釈
さて、聖書本文に未完了形が使われていることは、この箇所の解釈にも影響します。
未完了形にある継続や反復といった含意によって、一体どのようなことがわかるのでしょうか?
それは、主イエスがサタンの敗北を実際に目撃していたという事実です。
継続的に(あるいは反復的に)何かを見ていたということは、対象となる霊的現象が一定の長さの時間を掛けて、目の前で実際に起きていたことを示します。
サタンを悪の象徴と解釈し、現実の霊的存在ではないと考えるなら、
サタンが天から落ちるさまを「(継続的に)見ていた」と表現したルカの意図を打ち消すことになります。
霊的現象が目の前に現実的に存在するからこそ、「見ていた」という継続的な表現が意味を持つのです。
従って、この箇所は、実際にサタンの敗北が主イエスの目前で起きたと解釈すべきです。
確かに旧約聖書では、「天から落ちる」という表現が比喩的に使われています。
哀歌2:1
しかし、だからといって、サタンをこの世の悪の象徴とするのは別の問題です。
「天から落ちる」という表現を旧約聖書と関連付けたとしても、それをサタンの敗北と解釈することの障害にはなりません。
私の手元にある複数の聖書注解書*によれば、サタンが「天から落ちる」という表現は、イザヤ14:12を暗示するものだとされています。
しかし同時に、それはサタンの大敗北を示すと解釈されています。
一例として、NETバイブルの注釈を抜粋します。
This is probably best taken as allusion to Isa 14:12; the phrase in common is ἐκ τοῦ οὐρανοῦ (ek tou ouranou). These exorcisms in Jesus’name are a picture of Satan’s greater defeat at Jesus’hands (D. L. Bock, Luke [BECNT], 2:1006-7).
これは、イザヤ14:12を暗示したものと取るべきだろう。両者に共通のフレーズは、エク トウ ウラノウである。イエスの御名による悪霊追出しは、主イエスの御手によるサタンの大敗北を描いている(ダレル・ボック著、Luke 9:51-24:53 (Baker Exegetical Commentary on the New Testament、P1006~1007)。
イザヤ14:12
暁の子、明けの明星よ。どうしてあなたは天から落ちたのか。国々を打ち破った者よ。どうしてあなたは地に切り倒されたのか。
●まとめ
この箇所におけるセオーレオーの未完了形は、重視しなければなりません。
主イエスは、目前でサタンの敗北を継続的に「見ていました」。
筆者のルカは、サタンに対する主イエスの勝利が「正確な事実」であることを伝えるために、あえて未完了形を使ったのです(ルカ1:4参照)。
おわり