ダビデの日記

自分が学んだ聖書の教えに関するブログ

エノク書は偽典それとも正典?

 
 過去記事「第二正典は「聖書」のうちに入りません!」を読まれた方から、とてもよいご質問をいただきました。
 
 ユダの手紙の中で、著者のユダは、第一エノク1:9から引用をしてます。
 
 それは、エノク書が霊感を受けた正典だからでしょうかというご質問です
 
 このご質問は聖書観に関するもので、重要だと思いますので記事を書いてみました。
 
 以下がその引用箇所です。
 
 
ユダの手紙1:14~15
アダムから七代目のエノクも、彼らについて預言してこう言っています。「見よ。主は千万の聖徒を引き連れて来られる。すべての者にさばきを行ない、不敬虔な者たちの、神を恐れずに犯した行為のいっさいと、また神を恐れない罪人どもが主に言い逆らった無礼のいっさいとについて、彼らを罪に定めるためである。」
 
 
 海外のサイトを見ますと、懐疑的な方は、この箇所がエノク書の引用であること自体を疑います。
 
 それゆえ、1エノク1:9と比較してみたいと思います。
 
 
1エノク1:9(英語版の私訳) 
見よ。主は万の聖徒と共に来られる。不敬虔な者たちに裁きを行ない、彼らを滅ぼすためである。罪人たちと不敬虔な者たちが主に対して行ったいっさいについて、すべての肉なる者たちに対処するためである。
 
                     出典The Book of Enoch(英語PDF版)
 
 確かに、逐語的とまでは言えませんが、かなり似通っています。
 
 上記のエノク1:9は英語版を日本語に訳していますので、語順などがかなりズレている可能性があります。
 
 ユダがギリシャ語版をそのまま引用したのか、別の言語のエノク書の1:9だけを訳したのかは定かではありません。
 
 
エノク書1章の文脈
 
 今回は、上記の英語版から1章全体を訳してみました。
 
 エノク1:9が書かれた脈絡を確認するためです。
 
 英語版翻訳者による解説をご覧いただいた後、目を通していただければと思います。
 
 
解説:1章はエノク書の序章の一部で、「見張り/Watchers」と呼ばれる天使たちが、将来に関する幻をエノクに見せます。創世記6:4に登場するネフィリムは、この見張りたちの子孫です。本章の主題は、裁きによる破壊です。神は罪人たちを一掃し、義人たちに平和をもたらします。裁きとはノアの洪水のことですが、ノアの洪水はエノクがこの書物を記したときよりも、しばらく先の出来事でした。
 
1章 エノクの祝福
 
1:1 これはエノクの祝福の言葉である。その中で、彼は選ばれた義なる者たちを祝福した。この者たちは苦難の日に存在していなければならない。この日は、悪しき不敬虔な者たちを取り除くために定められている。
1:2 エノクは彼の物語を語りはじめた。一人の義人がいた。彼の眼は主によって開かれ、天における聖なる幻を見た。これは天使たちが私に見せたものである。私はすべてを彼らから聞いた。そして、私は自分が見たことを悟った。しかし(それは)この時代のためではなく、遥か先の時代のためであった。
1:3 私が語るのは、選ばれた者たちについてである。私は彼らに関する譬えを語った。聖なる偉大なお方が、その住まいから出て来られる。     
1:4 永遠神がシナイ山の上から歩みれる。その方はご自分の軍勢と共に現れる。彼は、天の力の強さうちに現れる。
1:5 すべての者は恐れる。見張りたちは震えおののき、地の果てに至るまで凄まじい恐れに捕らわれる。
1:6 高き山々振るえ高き丘は低くされ、炎の中でロウのように溶ける。
1:7 地は沈み、地上のすべてのものは滅ぼされる。すべてのもの上に裁きがくだる。すべての義なる者の上にも。
1:8 しかし、義なる者たちのために、主は平和を設ける。主は選ばれた者たちを保たれる。憐れみが彼らの上に注がれる。彼らはみな神のものとなり、栄え祝福される。そして、神の光が彼らの上に輝く。   
1:9 見よ。主は万の聖徒と共に来られる。不敬虔な者たちに裁きを行ない、彼らを滅ぼすためである。罪人たちと不敬虔な者たちが主に対して行ったいっさいについて、すべての肉なる者たちに対処するためである。
                          
出典The Book of Enoch(英語PDF版)
 
 
正典と認めないケース
 
 米国などのサイトを調べますと、エノク書を正典として認めない立場と、擁護する対場とが相対しています。
 
 認めない立場の方々は、概ね次ような理由付けをします。
 
ユダヤ人がエノク書を正典として認めていない
カトリックプロテスタントも正典として認めていない
新約聖書に引用されたからといって、エノク書を正典と認める根拠にはならない
 
 
 認めないケースの一例として、ガイスラ―博士の解説を以下に引用します。
 
 ガイスラー博士はシカゴ声明の編集者を務めた方で、聖書の信頼性を擁護するミニストリー団体Defending Inerrancyを主宰しています。
 
 
ユダ14節:ユダは霊感を受けていないエノク書を神の言葉として引用したのか?
 
問題点:ユダはエノク書を引用している。「アダムから七代目のエノクも、彼らについて預言してこう言っています。『見よ。主は千万の聖徒を引き連れて来られる』」(14節)。しかしエノク書は霊感されておらす、教会は偽典(偽の聖典)として見なしている。
 
解決案:まず初めに言えるのは、ユダが実際にエノク書を引用したか否かは定かではないということである。彼は、エノク書に書かれた内容に言及しているだけかもしれない。注意すべきは、ユダはエノクがその箇所を書いたと肯定しているわけではないということである。ユダは単に、『エノクも…言っている』(14節)と記しただけである。ユダはエノク書ではなく、信頼性の高い(別の)口伝を用いたのかもしれない。
 
ユダがこの箇所をエノク書から引用したのなら、この箇所の内容が真実だということである。聖書以外の多くの書物にも、真実な内容は見られる。ユダが正典ではない書物から引用したからといって、ユダが記したことが誤りだということにはならない。エノク書に書かれていることのすべてが正しいわけではないが、だからといって、すべてが間違っていることにはならないからだ。
 
パウロの場合、異教徒の詩人の言葉を真理として引用している(使徒17:28、1コリント15:33、テトス1:12)。しかしパウロは、それらの書物が霊感を受けていたとは述べていない。バラムのロバでさえ、真理を語っている(民数記22:28)。ユダの手紙が霊感を受けていることは引用元の書物に記されたすべてを保証するわけではない。保証されるのは、引用箇所だけである
 
最後になるが、ユダの手紙の(真正性を示す)外的証拠が、エイレナイオスの時代(紀元170年頃)以降に広範に見られる。その証拠は、(最古の写本一つ)紀元250年のボドマーパピリ (P72)の中に見られる。また、ユダの手紙の真正性を示す証拠の痕跡は、2世紀に記されたとされるDicache 27節)にさえも見れられる。このように、ユダの手紙の真正性を示す証拠が存在するため、エノク書の内容の如何にかかわらず、その真正性が損なわれることはない。エノクという人物が存在し、彼が神と親しく歩んでいた事実は、旧約聖書(創世記5:24)新約聖書(へブル11:5)ではっきりしている。 
 
                          出典:Defending Inerrancy
 
 
擁護するクリスチャンも多い 
 
 海外のサイトを調べますと、エノク書を擁護するクリスチャンが多いことに驚かされます。
 
 エノク書は、ノアの洪水の原因となった天使たちと人間の女性の性的関係(創世記6:4)や、その結果としてネフィリムが生まれたとする逸話を伝えています。
 
 エノク書を擁護する方々は、エノク書に書かれた内容と同様のものが他の国々の伝承にも見られると主張しておられ、
 
 エノク書の真実性を擁護しておられます。
 
 また、初期キリスト教の教父たちもエノク書を高く評価しており、聖書の中に加えることを望んでいたと主張する方々もいます(こちらの動画:英語)。
 
 上の動画もそうですが、こちらのサイト(英語)でも、ユダだけではなくパウロやペテロもエノク書を引用していたと述べています。
 
 そういった箇所として取り上げられたものの中には、以下の箇所があります。
 
1コリント13:1
たとい、私が人の異言や、御使いの異言で話しても、愛がないなら、やかましいどらや、うるさいシンバルと同じです。
 
2ペテロ2:4
神は、罪を犯した御使いたちを、容赦せず、地獄に引き渡し、さばきの時まで暗やみの穴の中に閉じ込めてしまわれました。
 
 
 また、ネット上にあるエノク書の邦語訳(抄訳)としては、こちらの「第一エノク書」があります(特にエノク書を擁護しているわけではありませんが)。
 
 私見に過ぎませんが、この邦語訳の「牛と獣の幻/動物の寓話」は、興味深い内容だと思います。
 
 
おわりに
 
 先述のとおり、ガイスラー博士はエノク書全体の霊感については否定しておられます。

 しかしユダは、エノクが「預言して…」と書いています。
 
 ペテロは、預言についてこう述べています。
 
 
2ペテロ1:21
なぜなら、預言は決して人間の意志によってもたらされたのではなく、聖霊に動かされた人たちが、神からのことばを語ったのだからです。
 
 
 つまり、ペテロとユダによれば、エノクは聖霊に動かされてエノク1:9という神の言葉を書いたということになります。
 
 だとすれば、一つ手前の1:8も聖霊に動かされて書いたのかもしれません。

 そして、1章全体も同じように聖霊に動かされて書いたのかもしれません。
 
 さらに、2章や3章も同じかもしれません。
 
 この点は軽視すべきでなく、さらなる研究を通して確認すべきことではないかと思います。
 
 学者の方々には、ぜひ頑張っていただきたいと願います。
 
 おわり