御霊の人の証明 その2
天国や地獄に行った体験を証することには、弊害が伴います。
ひとつは聖書と一致しない内容が語られる場合がしばしばあるからです。
体験の中でイエスや天使から説明される救いや罪の概念が、
聖書と違っている場合が多いのは大きな問題です。
その証を鵜呑みにしてしまうと、
聖書が教える救いや罪の概念とは違うものを信じることになります。
教理的な内容に混乱をもたらす証が、良い証と言えるでしょうか。
霊的体験を証することによって教理的な混乱を生じさせるなら、
そのような証をすること自体、聖書的とは言えません。
聖書の神は、混乱の混乱の神ではないからです(第一コリント14:33参照)。
もう一つの問題点は、
体験者が変わると、天国や地獄に関する内容も変わることです。
それぞれの証で描写される天国や地獄の様子、
イエスや天使の言葉の内容が、
証ごとに少しずつ違っていることも混乱を生み出します。
神がその体験をさせたのなら、どうして見聞きした内容に相違があるのか、
という混乱です。
Aさんの体験した天国と
Bさんが体験した天国に相違があるなら、
どちらか一方が神による体験ではないか、
両方とも神による体験ではないか、
二つに一つしかありません。
証はポーカーではありません。
正しいかどうかがあやふやな体験談に、真理の太鼓判を押すわけにはいきません。
信仰とは、見聞きしたことを鵜呑みすることではないからです。
霊的な体験を証する人は、正直な気持ちでそうしているのだと思います。
大人ばかりではなく、純真な子供も天国に関する証をしています。
しかし体験の証は、真理を測る基準にはなりません。
いえ、そうしてはいけないのです。
なぜならイエスがこう言っているからです。
イエスは天に帰られましたが、
ですから真理の基準は体験ではなく、聖書でなければなりません。
体験を過度に重視する人、
しるしと不思議を強調しすぎる人は、
確かに、私たちは見るところによってではなく、信仰によってんでいます。(第二コリント5:7)
つづく