「背教」か「出発」か? 2テサロニケ2:3 その2
その1からのつづき
●「背教」と訳されるようになった理由
ギリシャ語の意味だけで判断するなら、「出発」と訳すこともできます。
著名なギリシャ語学者ウースト博士は、こう説明しています。
訳
「背教する/fall away」という表現は、初代欽定訳(1611年)によるアポスタスィーアの訳語である。・・・この言葉には「fall/落ちる」という意味はない。ギリシャ人たちは、「落ちる」ことを言う場合、ピプトーという言葉を使っていた。・・・もし初代欽定訳がこの言葉を意訳ではなく(直訳していたなら)、「departure/出発」と訳していたであろう。
このように、「背教」という訳語は初代欽定訳以降に定着したものです。
「出発」と訳せば、教会が地上から出発するとも解釈でき、
患難前携挙説には有利です。
しかし現代は、「出発」と訳している聖書は1つもありません。なぜでしょうか?
●「背教」か「出発」か?
それは翻訳者たちが、2テサロニケ2章の文脈を理解しているからです。
パウロが2章を書いた目的は、テサロニケのクリスチャンたちに、
携挙がまだ起こらないことを説明するためです。
「携挙がまだ起こらない」という文脈の中で、
「教会の地上からの出発」を持ち出すのは理に叶いません。
それゆえどの聖書も「背教」と訳しているわけです。
実際パウロは、終末が近づくと背教が起こると別の箇所で述べているので、
2テサロニケのアポスタスィーアを「背教」と訳すことは理に叶っています。
翻訳において、文脈はそれほど重い意味を持っているのです。
しかし、御霊が明らかに言われるように、後の時代になると、ある人たちは惑わす霊と悪霊の教えとに心を奪われ、信仰から離れるようになります。1テモテ4:1
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