ダビデの日記

自分が学んだ聖書の教えに関するブログ

ローマ12:1と1ペテロ2:2の訳語に関する考察

 
 表題にある2つの聖句には、様々な訳文があります。
 
 日本語としては、どれも意味が異なります。
 
 どうしてこのような事が起こるのでしょうか?
 
 まずは、ローマ12:1から見てみましょう。
 
 
聖書協会共同訳
こういうわけで、きょうだいたち、神の憐れみによってあなたがたに勧めます。自分の体を神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げなさい。これこそ、あなたがたの理に適った礼拝です。
 
別訳:「霊的な」
 

新共同訳
こういうわけで、兄弟たち、神の憐れみによってあなたがたに勧めます。自分の体を神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げなさい。これこそ、あなたがたのなすべき礼拝です。
 
新改訳
そういうわけですから、兄弟たち。私は、神のあわれみのゆえに、あなたがたにお願いします。あなたがたのからだを、神に受け入れられる、聖い、生きた供え物としてささげなさい。それこそ、あなたがたの霊的な礼拝です。
 
新改訳2017
ですから、兄弟たち、私は神のあわれみによって、あなたがたに勧めます。あなたがたのからだを、神に喜ばれる、聖なる生きたささげ物として献げなさい。それこそ、あなたがたにふさわしい礼拝です。
 
 
訳語が異なる理由 
   
「理に適う」と「霊的な」では大きく意味が違います。
 
 このように訳語がばらつく理由は、ロギコスというギリシャ語の訳し方にあります。
 
 織田昭著「新約聖書ギリシア語小辞典」は、ロギコスの意味を次のように説明しています。
 
①道理にかなった、理屈の通った、合理的な;ロマ12:1 ロギケーン ラトレイアン、 理性的な礼拝、キリスト信仰者として筋の通った礼拝.②比喩的な、(文字通りの意味に対し)霊的な意味での:1ペト2:2 ロギコン ガラ、霊的な乳-この用例には新改訳やフランシスコ会訳が見ているように、「ロゴスの乳-みことばという乳」の意味も二重映しになっていると思われる;ロマ12:1も「霊的な礼拝」と訳すことが可能である.(P347) 
                             
 
 上記の説明でお判りいただけると思いますが、ロギコスの意味を①と取るか②と取るかで訳語が異なるわけです。
 
 どちらに取ったとしても間違いではありませんが、日本語になった際の格差が大き過ぎる気もします。
 
 どちらかを選ぶとしたら、皆さんはどちらを選ばれますか?
 
 
 
 これから述べることはあくまでも私見ですが、私は12:1冒頭のそういうわけですから」という言葉にポイントがあると思います。
 
 パウロはこの言葉で12:1以前の内容を総括しており、その内容を根拠にして「あなたがたのからだを生きた供え物としてささげなさい」と勧めています。
 
 ですから、12:1以前の内容を考えることで、ロギコスの訳し方も決まってくると思います。
 
 特に直近の11:33~36が重要だと思います。
 
 
ローマ11:3336
33ああ、神の知恵と知識との富は、何と底知れず深いことでしょう。そのさばきは、何と知り尽くしがたく、その道は、何と測り知りがたいことでしょう。34 なぜなら、だれが主のみこころを知ったのですか。また、だれが主のご計画にあずかったのですか。35 また、だれが、まず主に与えて報いを受けるのですか。36 というのは、すべてのことが、神から発し、神によって成り、神に至るからです。どうか、この神に、栄光がとこしえにありますように。アーメン。
 
 
 パウロはこの箇所で、神の知恵の深さや神の偉大さ、神の豊かさを述べています。
 
 私たちはすべてを神から受けているに過ぎず、私たちから神に捧げられる唯一のものは自分の体だけというのが、パウロの云わんとしているところではないでしょうか。
 
 だとしたら、ロギコスを①の意味で理解するのが自然だと思います。
 
 パウロは物事を論理的に考え、論理的に解説する人物だからです。
 
 ですから私は、聖書協会共同訳のローマ12:1を選びます。
 
 
聖書協会共同訳
こういうわけで、きょうだいたち、神の憐れみによってあなたがたに勧めます。自分の体を神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げなさい。これこそ、あなたがたの理に適った礼拝です。
 
 
1ペテロ2:2
 
 2番目は1ペテロ2:2で、こちらは三つ巴です。
 
 
聖書協会共同訳
生まれたばかりの乳飲み子のように、理に適った混じりけのないを慕い求めなさい。これを飲んで成長し、救われるようになるためです。
 
新共同訳
生まれたばかりの乳飲み子のように、混じりけのない霊のを慕い求めなさい。これを飲んで成長し、救われるようになるためです。
 
新改訳
生まれたばかりの乳飲み子のように、純粋な、みことばのを慕い求めなさい。それによって成長し、救いを得るためです。
 
新改訳2017
生まれたばかりの乳飲み子のように、純粋な、霊の乳を慕い求めなさい。それによって成長し、救いを得るためです。
 
 
「理に適った乳」「霊の乳」「みことばの乳」
 
 皆さんはどちらを選ばれますか?
 
 
私見 

 1ペテロ2:1の冒頭を見ますと、ペテロは「ですから」という言葉を使っています。
 
 こう訳されたのは、推論の接続詞ウーンです。
 
 パウロローマ12:1の冒頭で使っていたそういうわけですから」と同じ言葉です。
 
 つまり、ペテロも1章の内容を踏まえた上で、2章を書き始めているわけです。
 
(蛇足ですが、原本には章や節はありません)
 
 ウーンの意味は文脈により様々ですが、これら2つの聖句では「故に、したがって、当然の結果として、だから、それで、そこで」といった意味です(同P424)。
 
 私は、特に次の部分を受けていると思います。
 
 
1ペテロ1:2223 
あなたがたは、真理に従うことによって、たましいを清め、偽りのない兄弟愛を抱くようになったのですから、互いに心から熱く愛し合いなさい。23 あなたがたが新しく生まれたのは、朽ちる種からではなく、朽ちない種からであり、生ける、いつまでも変わることのない、神のことばによるのです。
 
 
 この部分に2章の冒頭を加えると、しっくりきます。
 
 
2:12
ですから、あなたがたは、すべての悪意、すべてのごまかし、いろいろな偽善やねたみ、すべての悪口を捨てて、2 生まれたばかりの乳飲み子のように、純粋な、みことばの乳を慕い求めなさい。それによって成長し、救いを得るためです。
 
 
 23節の終わりに「生ける神のことば」(ロゴウ ゾンタス セオウ)とあることを考慮すれば、
 
 この文脈では「理に適った乳」よりも、「みことばの乳」あるいは「霊の乳」が適切だと思います。
 
 2節の終わりの「それによって救いを得るためです」という一節もポイントになると思います。
 
「救いを得るため」を重視するなら、「みことばの乳」という訳語が最も適切ではないでしょうか。
 
 そういうわけで、私は従来の新改訳を選びます。
 
 
新改訳
生まれたばかりの乳飲み子のように、純粋な、みことばのを慕い求めなさい。それによって成長し、救いを得るためです。
 
 
おまけ
 
 皆さんの中に、「救いを得るためです」「救われるようになるためです」という表現が気になる方がおられるのではないでしょうか?
 
「えっ、ぼくたち、まだ救われていないの?」と。
 
 しかし、ペテロは既に1:23で、「あなたがたが新しく生まれたのは神のことばによる」と述べています。
 
 ですから、2:2の救いを得るため」の意味は、慎重に考える必要があると思います。
 
 というのは、「新しく生まれた」という部分は動詞の完了形で書かれているからです。
 
 言うまでないかもしれませんが、完了形は既に完了した動作を表す表現です。
 
 ですから、福音を信じた私たちが既に新生していることは確かなのです。
 
 従って、救いを得るため」の「救い」は、再臨の時に向かえる救いの完成を意味していると考えるべきだと思います。
 
「救い」と訳されているのはソテリアという言葉で、英語のソテリオロジー(救済論)の語源になっています。
 
 織田昭著「新約聖書ギリシア語小辞典」は、ソテリアの意味を次のように説明しています。
 
②(霊的な)救い;メシアいによる罪と死からの救い、死から解放して来世へ突入できる霊的生命(永遠の命)を与えること;もっともユダヤ人たちはメシアによる救いを地上的に考え、外国の「くびき」からの解放と独立イスラエル王国の再興と理解したが、イエスはこれを霊的な意味のソテリアに高められた.このソテリアは(a)過去の事実により既に完成されたものであり、また、(b)現在進行中のプロセスであり、(c)未来で完成されるものである(ロマ13:11、フィリ2:12、ヘブ9:28).
                                (P575)
 
 特に「現在進行中のプロセスであり、未来で完成されるもの」という救いの定義が、1ペテロ2:2の「救い」に当てはまるのではないでしょうか。
 
 小辞典に記載されている次の箇所も、入信という意味の「救い」ではなく、救いのプロセスの完成を意味する「救い」を述べていると思います。
 
 
ピリピ2:12
そういうわけですから、愛する人たち、いつも従順であったように、私がいるときだけでなく、私のいない今はなおさら、恐れおののいて自分の救いを達成してください。
 
ヘブル9:28
キリストも、多くの人の罪を負うために一度、ご自身をささげられましたが、二度目は、罪を負うためではなく、彼を待ち望んでいる人々の救いのために来られるのです。
 

 おわり