ダビデの日記

自分が学んだ聖書の教えに関するブログ

聖霊

ディボーション日記


聖霊


Heb 10:15 聖霊も私たちに次のように言って、あかしされます。

Heb 10:16 「それらの日の後、わたしが、彼らと結ぼうとしている契約は、これであると、主は言われる。わたしは、わたしの律法を彼らの心に置き、彼らの思いに書きつける。」



この箇所を読んだときに、聖霊の働きについて思わされました。

律法は旧いものとされ、新約時代の神の民は、信者の思いに書かれた律法、

すなわち聖霊、に従う者とされました。



パウロも次のように述べています。

2Co 3:6 神は私たちに、新しい契約に仕える者となる資格をくださいました。文字に仕える者ではなく、御霊に仕える者です。文字は殺し、御霊は生かすからです。



エスさまも、このようにおっしゃっています。

Joh 15:26 わたしが父のもとから遣わす助け主、すなわち父から出る真理の御霊が来るとき、その御霊がわたしについてあかしします。



このように聖書が私たちに、聖霊を認め、聖霊に従うよう教えていることは明らかです。

ところが、こんにちの教会の中には、聖霊ご自身や聖霊の賜物について、ほとんど教えようとしないところが少なくありません。教団によっては、取り扱ってはならない聖書箇所が決められているという話も聞いたことがあります。

これは一体、どういうことでしょう?

聖書が「御霊によって歩みなさい」と教えているのに、聖霊を知らずにどうやって神に従えというのでしょう。

聖書の神は三位一体のご人格を持つお方なのに、そのうちの一格である聖霊を受け入れないのであれば、主なる神のご人格の三分の一を拒んでいるということになります。

それでもそれらの方々は、自分たちは主を愛していると言うかもしれません。それを否定はしません。でも、愛しているとしても、最大でご人格の三分の二までということになります。

神学的に認めていれば、実質を拒否していてもいいのでしょうか。

聖霊がこの地上に来られたから教会が生れました。つまり聖霊と教会は、切っても切り離せない関係にあるというのに、そのお方を受け入れないとはどういうことでしょう。

私が洗礼を受けた教会は、福音派でした。何年かして私が聖霊派に移ることになり、牧師さんと私の二人だけで、話し合いをしました。その中で牧師さんが私にこういう話をしました。

その牧師さんは若い頃、やはりカリスマ的なものを求めた時期があり、異言を受けた。今でも個人的に祈っていて、祈りが深くなると異言が出てくると。

ところがこの牧師さんは、説教では一度たりとも異言のことについて話したことはありませんでした。

自分はそれを受けており、それが本物であることを知っているのに、信徒たちには隠している。元同業者として、このような姿勢を理解できないわけではありません。しかし私が彼の立場にあったら、神のものを実践できない教団、自由に神を求め、自由に神に従うことのできない団体は出ることをいといません。

私は福音派生れですから、福音派が主に用いられていることも、素晴らしいところがあることも知っています。しかし、こと聖霊に関しては、残念としか言うことができません。

何とか、一人でも多くのクリスチャンに、聖霊を知ってほしいものです。