ダビデの日記

自分が学んだ聖書の教えに関するブログ

なだめの供え物1

なだめの供え物

「神は、キリスト・イエスを、その血による、また信仰による、なだめの供え物として、公にお示しになりました。それはご自身の義を現すためです。というのは、今までに犯されて来た罪を、神の忍耐をもって、見のがして来られたからです。それは、今の時にご自身の義を現すためであり、こうして神ご自身が義であり、また、イエスを信じる者を義とお認めになるためなのです。」 ローマ3:25~26

みなさんは「なだめの供え物」という言葉に、どのような印象をお持ちでしょうか。上記の聖句を読むと、この「なだめの供え物」とは十字架にかかったキリストのことであることは容易にわかります。しかし「なだめの供え物」は、贖い(罪の赦し)とは少し違う意味があります。

一般的に「なだめ」という言葉は、感情の高揚を静める場合に使う言葉です。例えば、泣きじゃくっている赤ちゃんをなだめるとか、怒っている人をなだめるなどと言います。では十字架のキリストは、何をなだめたのでしょうか。上記の聖句が言わんとしていることは、どのようなことでしょうか。

●神の怒りを受けたキリスト
聖書の多くの箇所で、神は裁判官(裁く方)として描かれています。もし裁判官が、犯罪者に向かって「わたしは優しく寛大な裁判官だから、あなたを罰しません。あなたは罪を犯しましたが、見逃しましょう」と言って彼を釈放したらどうでしょう。その裁判官は、正義を行っているでしょうか。答えはノーです。罪を罰することが正義だからです。この原則は神に関してもまったく同じです。

「悪者を正しいと認め、正しい者を悪いとする、この二つを、主は忌みきらう」と箴言17:15にあるとおり、神の御心は罪が罰せられることです。ところがローマ3:25には、神が十字架以前に犯された罪を見のがしたと書かれています。人々は罰せられませんでした。

実際、ダビデは姦淫と殺人の罪を犯したにもかかわらず、その罪に相応の裁きを受けませんでした。ナタンは次のように言いました。
 
「主もまた、あなたの罪を見過ごしてくださった。あなたは死なない」(Ⅱサムエル記12:13)。

モーセも殺人の罪を犯したにもかかわらず、罰せられるどころか民族解放の働きに召され、民族の指導者になりました。サムソンもラハブも、大きな罪を犯していたにもかかわらず、罰せられるどころか、神の御心を行い神の役に立ちました。

このように神は、旧約時代の神の民の罪を見逃したのです。見逃したということは、そのままでいるなら正義の神ではありません。罪は罰するのが正義(神の義)だからです。
 
ところが、正義が実行されない状態が何千年も続きました。この間、神の義は曲げられたり、忘れられていたのでしょうか。そうではありません。罪に対する神の怒りという形で、神の心の中に溜め込まれたのです。

そして遂に、この神の義憤はキリストの十字架刑という形で現れました。罪人の代わりに、義なる方が罰っせられました。神の息子が罪そのものとなり、神に打たれたのです。

「こうして神ご自身が義であり、また、イエスを信じる者を義とお認めになるためなのです」(ローマ3:26)。

ですからキリストの死が何をなだめたかと言えば、怒れる神をなだめたのです。神が義となるためには、神の義憤の「なだめ」が必要にして不可欠でした。私たちは十字架によって、罪から救われただけではなく、神の怒りからも救われたのです。
 
このように、キリストの十字架には2つの異なる意味がありました。選ばれた者たちの贖いと、神の怒りのなだめです。
 
次回の記事では、なだめの範囲、つまり、誰がキリストによるなだめを受けることができたかについてお話します。