ダビデの日記

自分が学んだ聖書の教えに関するブログ

完全な救い

「ああ愚かなガラテヤ人。十字架につけられたイエス・キリストが、あなたがたの目の前に、あんなにはっきりと示されたのに、だれがあなたがたを迷わせたのですか。ただこれだけをあなたがたから聞いておきおきたい。あなたがたが御霊を受けたのは、律法を行ったからですか。それとも信仰をもって聞いたからですか。あなたがたはどこまで道理がわからないのですか。御霊によって始まったあなたがたが、いま肉によって完成されるというのですか。」ガラテヤ3:1~3
 
コメントの引用
「天の王国に入ることは、天の父のみこころを行なうことを要求するのですから、それは再生されて神の王国に入ることとは明らかに異なっています(ヨハネ3:3、5)。神の王国に入ることは神聖な命の誕生により、天の王国に入ることは神聖な命の生活によります 。」
 
上記のコメントが言わんとしていることは、救いはボーンアゲンすることによって起こるが、天国に入るにはボーンアゲンだけでは不足していて、地上での行いが必要不可欠な条件だという内容です。
 
これは、しばしばクリスチャンが陥る誤りの一つです。救いの完成が人間の責任によるもので、その責任が十分果たせないなら、せっかく救われても天国には行けない、つまり途中で救いを失うという律法主義的な考え方です。
 
(この誤りについては、このブログの「限定的な贖い」や「永遠の救い」の記事でも取り扱っていますので、そちらも参照してください。)
 
エスの教えによれば、一度救われた人が天国に入れないということは、絶対にありません。もし救われたのに天国に入れないとしたら、イエス・キリストは嘘つきになります。一例:ヨハネ6:40、44、ヨハネ10:28~29
 
同時に、上記のコメントの背景には複数の聖書理解の誤りがあるので、一つひとつ解説しようと思います。
 
●他の聖句との矛盾
コメントの内容は、次の聖句と真っ向からぶつかります。
 
「それ(救われたこと)は行いによるのではりません。だれも誇ることがないためです。」エペソ2:9(回復訳)
 
神が救いにおいて人の行いを嫌うのであれば、天国に入ることにおいても同様であるはずです。救いの完成に人の行いが必要だとする考えは、この点で聖書と矛盾しています。
 
●基本的な用語理解の間違い
まずマタイの福音書における「天の御国」というフレーズは、他の福音書における「神の国」と100%同一の意味です。

マタイはユダヤ人向けに福音書を書きました。ユダヤ人は十戒の「わたしの名をみだりに唱えてはならない」に従い、「神」という言葉をたやすく使わない習慣があったので、マタイはそれに対する配慮から「神の国」とは書かず、あえて「天の御国」と書いたにすぎません。

ですから「天の御国」と「神の国」を、別物と考えること自体が間違いです。このことは各福音書の並行記事を見れば明確です。一例:マタイ4:17とマルコ1:15

●マタイ7:21の解釈
次にマタイ7:21の解釈が間違っています。

コメントをされた方の考えでは、同聖句で「『主よ、主よ』と言う者」を信者と考えていますが、イエス未信者と考えています。
 
「わたしに向かって『主よ、主よ』と言う者がみな天の御国に入るのではなく、天におられるわたしの父のみこころを行う者が入るのです。」
 
聖書を正しく解釈するには、必ず文脈の中で解釈しなければなりません。上記の聖句が置かれている文脈で主イエスがテーマにしているのは、「にせ預言者」です(7:15)。
 
「うち(=本質)は貪欲な狼です」と主イエスが教えているように、「にせ預言者」とは、クリスチャンのように見せかけた「狼」(未信者)です(7:15)。
 
「にせ預言者」が未信者であることは、23節の「わたしはあなたがたを全然知らない」という主イエスの言葉からもわかります。
 
エスは全知の神ですから、知識という点で主イエスが知らない人物など存在しません。ここで「知らない」と述べているのは、「自分とは関係がない」という意味です。人間関係上、その人物と交わったことがないという意味で「知らない」と言っているのです。つまり「にせ預言者」は救われていないのです。
 
更に、「父のみこころを行う者が入るのです」の解釈が違います。
 
「みこころを行う者」という部分には、原典では現在形の動詞が使われています。ギリシャ語には現在進行形がなく、現在形が進行形も兼ねています。ですからこの部分は、「父のみこころを(いつも)行っている者」というのが原義です。
 
「父のみこころを行っている者」とは誰かといえば信者です。つまり7:21で主エスは、「信者のふりをした未信者が天に入るのではなく、父のみこころを常に行っているところの信者が入るのだ」と教えているのです。
 
上記の言葉は、天に入るための条件を教えているのではありません。本当の信者の特徴は、父なる神のみこころを行うことです。主イエスは救いの条件を規定しているのではなく、天国に入る本物の信者の特徴の話をしているのです。
 
特徴=その人の本質の現れです。ですから主エイスは羊と狼、良い木と悪い木を対比して、本質の現われによって本物と偽者を見分けるられると言っているのです(7:15~20)。
 
●正しい救済論
冒頭のガラテヤ書の聖句が教えているように、救いは御霊によって始まり、御霊によって完成されます。肉は何の役にもなりません。

ガラテヤ教会に忍び込んできたユダヤ教信奉者は、律法の行いが救いの完成の必須条件だと教え、信者の信仰をかき乱しました。パウロは彼らの教えを「ほかの福音」と呼び(ガラ1:6,7)、間違った福音を教えるの者は「のろわれるべき」だとまで言いました(同1:8)。そしてパウロは次のように教えます。

「人は律法の行いによっては義と認められず、ただキリスト・イエスを信じる信仰によって義と認められる、ということを知ったからそこ、私たちもキリスト・イエスを信じたのです。これは、律法の行いによってではなく、キリストを信じる信仰によって義と認められるためなのです。なぜなら、律法の行いによって義と認められる者はひとりもいないからです。」ガラテヤ2:16

人は、行いによっては義と認められません(ローマ3:20)。もし行いが義と認められるなら、主イエスの十字架は必要ないのです。
 
主イエスは十字架で「完了した」と叫んで天に帰られました(ヨハネ19:30)。つまり救いは主イエスが完了させたのです。私たちは、何の付け足しも必要ない完成した贈り物として救いを受け取っています(エペソ2:8)。
 
「キリストは聖なるものとされる人々を、一つのささげ物によって、永遠に全うされたのです。」ヘブル10:14
 
人の行いが救いを完成させるという教えは、イエスの贖いを不十分なものとする教えです。イエスが「完了した」と言っているのに、「いいえ、完了していません。信者が行いによって完了させる必要があります」と嘘を教えているのです。
 
神は選ばれた者を愛し、一方的な恵みによって救われ、天に入れるようにしてくださいました。行いが必要なら恵みとはいいません。行いが必要だと教えることは、神の言葉を偽りとすることです。
 
「ただ、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いのゆえに、価なしに義と認めれるのです。」ローマ3:24

「事実、わたしの父のみこころは、子を見て信じる者がみな永遠のいのちを持つことです。わたしはその人たちをひとりひとり終わりの日によみがえられせます。」ヨハネ6:40

キリストは「ご自分によって近づく人々を、完全に救うことがおできになるのです。」ヘブル7:25

私たちを完全に救うのは、私たちの行いではありません。神の恵みによるのであり、主イエスのとりなしによるのです!