ダビデの日記

自分が学んだ聖書の教えに関するブログ

「二十四人の長老」~代表か総体か~


 
 黙示録には「二十四人の長老」と呼ばれる人々が登場します。
 
 患難前携挙説は「二十四人の長老」は教会の総体であると解釈し、

 ゆえに患難期には教会は地上に存在しないと考えます。
 
 一方、患難後携挙説では「二十四人の長老」は教会の代表者たちで、

 教会は依然として患難期の地上に存在すると考えます。
 
 この記事では、そもそも長老という存在にどのような意味があるのかを確認します。
 
 
旧約時代の長老
 
黙示録4:10~11 
二十四人の長老は御座に着いている方の御前にひれ伏して、永遠に生きておられる方を拝み、自分の冠を御座の前に投げ出して言った。
「主よ。われらの神よ。あなたは、栄光と誉れと力とを受けるにふさわしい方です。あなたは万物を創造し、あなたのみこころゆえに、万物は存在し、また創造されたのですから。」
 
 
 以下に、「新聖書辞典」(いのちのことば社P826から、
 
 旧約聖書における長老の説明を抜粋します。
 
 
イスラエル人が部族制のもとにあった時、権力は家族、氏族、部族の長にあった。

「長」は一般的に分別盛りの年齢が老年だったので「長老」と呼ばれた。…
 
「長老」という呼び名は…社会の指導者に対する述語として聖書に100以上引用されている。
 
長老は民の上に権力を行使し(申271、エズ108)、国を代表し(出3181812、士11511、1サム84)、

また宗教行為(レビ41315、ヨシ76)をすることにより国民を代表した
 
モーセは長老の中から70人を選び民を治めさせた(民1116)。
 
                        (引用終わり、強調はブログ主)

 
新約時代の長老
 
使徒11:28~30
その中のひとりでアガボという人が立って、世界中に大ききんが起こると御霊によって預言したが、はたしてそれがクラウデオの治世に起こった。そこで、弟子たちは、それぞれの力に応じて、ユダヤに住んでいる兄弟たちに救援の物を送ることに決めた。彼らはそれを実行して、バルナバとサウロの手によって長老たちに送った。
 
 
 次に新約時代の長老について引用します。
 
 
長老は、ほとんどの場合、個々の教会にあって、使徒の「伸ばされた手」の役割を果たし、使徒との連携の中で活動した。
 
長老は、預言、伝道の面で群れを指導し牧師また教師としての働きもした。
 
エルサレムの長老たちは、使徒と共に協議に参加した(使徒156)。
 
長老は群れに対し責任(へブ1317と権威(1テモ51719、ヘブ1317、1ペテ55を持っていた
                        (引用終わり、強調はブログ主)
 
 
適用
 
 上記の説明は終末論とは無関係に書かれたものですから、
 
 まったく中立的な立場で長老について描写しています。
 
 旧約時代の長老は国の代表者であり、国民の代表者であり、民の指導者でした。
 
 新約時代の長老は群れの指導者であり、牧会や教育を行う働き人であり、
 
 地域教会の責任者であると同時に、権威者でもありました。
 
 この定義を念頭に置いて黙示録の箇所を読んだ場合、
 
「二十四人の長老」を教会の代表者として理解するのが自然であり、理に適っています。 
 
 逆に、教会の総体とするのは不自然で無理があります
 
 
ディスペンセーション神学の矛盾
 
 ディスペンセーション神学の本来の特徴は、聖書を字義通りに解釈することです。
 
 ですから「二十四人の長老」を解釈する場合、
 
 24人の人物が御座の周りに存在していると解釈するのが本来のあり方です。
 
 それなのに、なぜ「教会の総体」であると象徴的な解釈をするのでしょうか?
 
 それは、ディスペンセーション神学が前提ありきの神学的体系だからです。
 
 患難前の携挙という前提が初めからあり、その前提に矛盾する解釈はできないので、
 
「二十四人の長老」も教会の総体と解釈せざるを得ないのです。
 
 しかしこの解釈は字義通りではなく、自己矛盾を呈しています。
 
 字義通りに解釈するなら、24人の教会の代表者と解釈すべきなのです。

 この点からも、患難前携挙説は正しい聖書解釈に則っていないことがわかります。

 患難前携挙説を信奉されている方は、この説の是非についてどうぞご再考ください。