迫害とサタンのシナゴーグ 黙示録2:8~11
黙示録2:8
また、スミルナにある教会の御使いに書き送れ。『初めであり、終わりである方、死んで、また生きた方が言われる。
「初めであり、終わりである方」という表現について、
注解者たちは、イザヤの箇所を引き合いに出し、
「絶対的主権者」を意味するものだと説明しています。
イザヤ44:6
イスラエルの王である主、これを贖う方、万軍の主はこう仰せられる。
「わたしは初めであり、わたしは終わりである。わたしのほかに神はない。」
激しい迫害は、信仰を持つ者にとっても厳しいことに変わりはありません。
しかし主イエスは、
主権者なる神がそれを許しているのだというメッセージを送っています。
加えて「死んで、また生きた方」と言うことにより、
たとい迫害によって地上の生命が奪われるとしても、
忠実さの報いとして永遠のいのちが与えられることを示唆しています。
●サタンのシナゴーグ
わたしは、あなたの苦しみと貧しさとを知っている。――しかしあなたは実際は富んでいる。――またユダヤ人だと自称しているが、実はそうでなく、かえってサタンの会衆である人たちから、ののしられていることも知っている。
スミルナの教会は、文字通り「迫害」を受けていたのです。
迫害で失職するなどし、経済的には貧乏でしたが、霊的には富んでいました。
「中傷的な言葉」という意味です。
英語の「blasphemy/冒涜」の語源になりました。
「サタンの会衆」という訳は間違いではありませんが、
当時のユダヤ人は、クリスチャンにとってはサタンの手先だったようです。
人々は、『密告者』によって地方官吏に売り渡されていた。
密告者による裏切りだけだったことが確認されている。
伝えられるところでは、2世紀初期のスミルナでは、
シナゴーグのメンバーではないと公言されるだけで、
キリスト教徒にとっては一種の裏切り行為になった。
ローマ帝国市民としての必要条件に違反することになり、守りを失ったからである。
(引用終わり)
●10節~11節
あなたが受けようとしている苦しみを恐れてはいけない。見よ。悪魔はあなたがたをためすために、あなたがたのうちのある人たちを牢に投げ入れようとしている。あなたがたは十日の間苦しみを受ける。死に至るまで忠実でありなさい。そうすれば、わたしはあなたにいのちの冠を与えよう。
耳のある者は御霊が諸教会に言われることを聞きなさい。勝利を得る者は、決して第二の死によってそこなわれることはない。」』
「十日の間」には解釈がいろいろあるとのことですが、
ある注解者は、十日間というのは小さな試練の比喩的表現だとしています。
ダニエル1:12
どうか十日間、しもべたちをためしてください。私たちに野菜を与えて食べさせ、水を与えて飲ませてください。
オリンピック選手や軍人が勝利の栄冠として受けたものです。
クリスチャンにとっての勝利とは、
信仰を忠実に守り通して、天国に凱旋することです。
2テモテ4:8
今からは、義の栄冠(ステファノス)が私のために用意されているだけです。かの日には、正しい審判者である主が、それを私に授けてくださるのです。私だけでなく、主の現われを慕っている者には、だれにでも授けてくださるのです。
私たちも、ぜひステファノスを被りたいですね。
↓読者の皆さんの上に祝福がありますように↓