ダビデの日記

自分が学んだ聖書の教えに関するブログ

ケノーシス論とその落とし穴


 
 そもそも、ケノーシスとはどういう意味でしょうか?
 
 オックスフォード・リビング辞典は、次のように定義づけています。
 
 
ケノーシス
(in Christian theology) the renunciation of the divine nature, at least in part, by Christ in the Incarnation.
キリスト教神学:キリストの神性放棄。受肉において、キリストが少なくとも神性の一部を放棄したとする概念。
 
由来
Late 19th century: from Greek kenōsis an emptying, from kenoein to empty, from kenos empty, with biblical allusion (Phil. 2:7) to Greek heauton ekenōse, literally emptied himself.
ピリピ2:7「ご自分を空しくして無にして」に当たるギリシャ語の動詞「ケノー」の名詞形「ケノーシス」に由来する。「(キリストの)自己無化」。起源は19世紀後期。
 
                * * *   
 
新共同訳2:68
キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、7 かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、8 へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。
 
 
 ピリピ2:7の解釈は、大まかに次の4種類です。
 
①神性の一部を放棄した(比較参照:ヤコブ1:17、マラキ3:6
 
②ご自身の栄光に覆いを掛けた(比較参照:ヨハネ17:5、マタイ17:1-2
 
③自らの意思で神の力の行使を部分的に控えた(比較参照:使徒10:38、マタイ24:36
 
④しもべの姿を取って人となられた
 
 
考察と私見
 
 ①は完全に非聖書的だと思います。
 
 理由は単純で、コロサイ書におけるパウロの見解と異なるからです。
 
 パウロは次のように書いています。
 
 
コロサイ1:19・岩波翻訳委員会訳
(神は)全き充満が御子の内に宿ることをよしとしたからであり、

コロサイ2:9・岩波翻訳委員会訳
キリストの内に〔こそ〕神性の全き充満が形態化して宿っており、
 
 
 特に2:9を直訳すると、次のようになります。
 
ν ατῷ  κατοικεῖ  πν τπλρωμα τς θετητος 
彼の内に   宿っている すべての 充満している状態が   神性の
 
σωματικς
形をとって
 
 
 主語はブルーで強調した部分なので、直訳するとこんな感じです。
 
直訳:彼の内には、神性の満ち満ちた状態がすべて形をとって宿っている
 

 これを見る限り、キリストの神性はまったく失われなかったと考えるべきだと思います。
 
 ②と③は聖書の内容と合致はするものの、パウロがピリピの箇所で述べていることとは違うと思います。
 
 パウロはこの箇所で、キリストの栄光や全知全能の力に一切言及していないからです。
 
 一方、④はピリピ2:7の原文の記述と整合します。
 
 
ピリピ26~7の対訳
 
6 ὃς ἐν μορφῇ θεοῦ ὑπάρχων 
6キリストは神の形のうちにあったが、
 
οὐχ ἁρπαγμὸν ἡγήσατο τὸ εἶναι ἴσα θεῷ,
神と等しくあることを固守すべきものとはみなさず、
 
7 ἀλλ᾽ ἑαυτὸν ἐκένωσεν μορφὴν δούλου λαβών,
7むしろ己れ自身を空しくした奴隷の形をとりつつ。
 
ἐν ὁμοιώματι ἀνθρώπων γενόμενος·
さらに人間と似た者になりつつ、
 
 
 上記をご覧いただくとわかるとおり、「己れ自身を空しくした」の意味を説明する形で、「奴隷の形をとる」「人間と似た者になる」とパウロは続けています。
 
 従って、④が「ご自分を空しくして」の最も適切な解釈だと思います。
 
 
二性一人格との対比
 
 ケノーシス論には、危険な一面があると思います。
 
 それは、キリストの二性一人格を否定する恐れがあるからです。
 
 二性一人格とは、以下のとおりです。
 
 
第2節 キリストの二性一人格
 
 この二性一人格の教理は、三位一体の教理とともに、キリスト教の正統(オーソドックス)教理を形成する大事なもので、キリスト教信仰の土台となる教理です。そして、キリストの二性一人格の教理は451年のカルケドン会議で確定しました。5点から学びましょう。

第1点 父と同質、同等
 イエス・キリストは、三位一体の神の第二人格で、神の御子で、父と同質、同等です。
 
第2点 受肉
 神の御子は受肉によって、人間の性質を取られました。なお、神の御子は、人間の性質に属するものは、弱さも含めてすべて取られました。しかし、聖霊の働きにより、罪は取りませんでした。これは、キリストの無罪性と言われます。
 
第3点 聖霊の力による身ごもり
 神の永遠の御子は、罪をと取らないで人間性を取る方法として、聖霊の力によって、おとめマリアから生まれました。
 
第4点 神の性質と人間の性質の二性
 神の御子は受肉、すなわち、聖霊の力により、おとめマリアより生まれることによって、それまでもっておられた神の性質に、今度は人間の性質が加わったので2つの性質をもつことになりました。ここで注意しましょう。神の性質を捨てて、代わりに、人間の性質を取ったのではないのです。神の性質と人間の性質の両方をもつお方になられたのです。ですから、神としての性質と人としての性質を持つお方は、イエス・キリストだけです。
 
第5点 一人格
 キリストは、神としての性質と人としての性質の二性をお持ちです。神でもあり、同時に、人でもあります。しかし、二つの人格ではなく、人格はひとつです。二人格ではありません。一人格です。二人格というと異端になります。カルケドン信条は、キリストの二性一人格について、「混ざらず、変わらず、分けられず、分離できず」と表明しました。
 
 
 
 おわり