ダビデの日記

自分が学んだ聖書の教えに関するブログ

キリストを受け入れるということはキリストのすべてを受け入れること

私は、このようなハウスチャーチに出会ったことがあります。主の説教の働きは受け入れるけれども、いやしの働きは受け入れない。祝福の働きは受け入れるけれども、苦しみを負う働きは受け入れない。つまり、キリストの復活の力は歓迎するけれども、キリストと共に苦しむことは受け入れない。

こういう教会にも出会いました。教えの働きは受け入れるけれども、貧しい人や困窮している人を助ける働きは受け入れない。またある教会は、建て上げの働きは求めるけれど、滅び行く人々への伝道はしない。

このような偏食的な受け入れ方は、自分たちのいいようにキリストを受け入れているだけで、キリストのありのままを受け入れていることにはなりません。

エス・キリストを正しく受け入れ、歓迎するということは、キリストを全人的に受け入れることです。彼の人格のすべてを。あなたのある一面は求めますが別の面はお断りです、というわけにはいかないのです。

ベタニヤとは、キリストのすべてが歓迎され、受け入れられる場所なのです。