ダビデの日記

自分が学んだ聖書の教えに関するブログ

死とハデスの権威を持つ方 黙示録1:18


 
 ワードスタディーによって、死とハデスに対するイエスの権威を見ることができます。

 
黙示録1:18 
生きている者である。わたしは死んだが、見よ、いつまでも生きている。また、死とハデスとのかぎを持っている
 
 
 原文を見ると、「生きている者」の部分は、
 
the living/生きているもの」という表現がされており、
 
 イエスが生きていることが強調されています。
 
 
「死んでいる」という意味のネクロスには、「死者」という名詞の意味もあるため、
 
「わたしは死んだが」の部分は、「わたしは死者だったが」と訳して、
 
「生きている者」と対比させたほうが良いようです。
 
 
「わたしは死んだが」の部分には、もう一つ考慮すべき言葉があります。
 
 先日取り上げた、「私は御霊の中にいた」というフレーズに使われていた、
 
 ギノマイ(~になる)という語がここにも使われ、
 
 一定の期間、イエスが死者になったことが強調されています。
 
 ですからこの部分は、死者になったことが明確に伝わる表現にしないといけません。
 

 もう一つ言うと、この部分はアオリスト過去形で書かれているため、
 
 何度も死者になったのではなく、一定の期間一度だけ死者になった、
 
 というニュアンスがあります。
 
 岩波訳は、これらを正確に訳出しています。
 
 
岩波翻訳委員会訳
また〔現在〕生きている者である。私は一度は死人となったが、しかし見よ、今や世々永遠に生ける者である。
 

 
死とハデスの権威者
 
死とハデスとのかぎを持っている」という部分ですが、
 
 鍵は複数形で書かれています。
 
 ですからイエスは、死の鍵とハデスの鍵の2種類の鍵を持っているのです。
 

 さらに、鍵は「持つ」という動詞の目的語になっていることから、
 
 鍵の持ち主に、死とハデスを開閉する権威と力があることがわかります。
 
 このように、イエスが死とハデスの権威者であることが描写されています。
 
 
まとめ
 
 イエスが死とハデスの権威を持てた理由は、実際に死者になった経験があり、
 
 その上で復活したからです。
 
 死者になったことと生き返ったことが確かだからこそ、
 
 死に対する権威を持つことができます。
 
 この意味でも、「わたしは一度死者になった」という部分は重要で、
 
 このフレーズが、死とハデスの権威者たる所以を物語っています。
 
 
 逆に言うと、死と復活の経験がないブッダやモハメット、文鮮明らには、
 
 死とハデスの権威を持てる可能性がありません。
 
 死んで蘇ったのはイエスだけですから、
 
 死とハデスの権威を持てるのもイエスだけなのです。
 
 
 私たちは、恵みによって本物の権威者に出会うことができました。
 
 ありがたいことです。
 
 死とハデスはイエスの勝利に飲まれたので、
 
 私たちはもはやそれらを恐れる必要がありません。
 
 キリストが再臨するとき、私たちは不死の体を身にまとうのです。ハレルヤ!
 
 
1コリント15:54~55 
朽ちるものが朽ちないものを着、死ぬものが不死を着るとき、「死は勝利にのまれた。」としるされている、みことばが実現します。
「死よ。おまえの勝利はどこにあるのか。死よ。おまえのとげはどこにあるのか。」
 
 
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