ダビデの日記

自分が学んだ聖書の教えに関するブログ

守護天使はいるのだろうか? マタイ18:10


 
 私は、個人的には守護天使の存在を信じませんが、聖書注解者の多くが信じていることに気づき意外に思っています。
 
 ひとり一人のクリスチャンに守護天使がいるという説が正しいのかもしれませんので、その説をご紹介します。
 
 
マタイ18:10 
あなたがたは、この小さい者たちを、ひとりでも見下げたりしないように気をつけなさい。まことに、あなたがたに告げます。彼らの天の御使いたちは、天におられるわたしの父の御顔をいつも見ているからです。
 
 
 まず、上記の箇所の「小さい者たち」というのは、子供のことではありません。
 
 3節でイエスが勧めているのは、「子どもたちのように」なることです。

「子どものように」素直にへりくだり、イエスを信じることを勧めています。
 
 この説教の聴衆は大人ですから、
 
 6節の「わたしを信じるこの小さい者たち」というのは、
 
 子供のようにへりくだり、神の国に入った信者たちのことを指しています。
 
 同様に10節の「小さい者たち」も、
 
 イエスを信じて神の国に入ったクリスチャンのことを指しています。
 
 
彼らの天の御使いたち
 
「彼らの天の御使いたち」の部分は、原文では次のように書いてあります。
 

οἱ ἄγγελοι  αὐτῶν   ἐν   οὐρανοῖς 
 御使いたち    彼らの   の中の    天
 
 
 直訳すると、「天にいる彼らの御使いたち」です。
 
 岩波翻訳委員会訳は、そう訳しています。
 
 
天にいる彼らの〔ための〕御使いたちは、天におられる私の父の顔を常に見ているからである。
 
 
 ですから、「天にいる」を取り除いて考えると、「彼らの御使いたち」となります。
 
 問題は、「彼らの御使いたち」という表現をどう解釈するかです。
 
 
解釈
 
 聖書注解者たちは、ユダヤ的な背景について述べています。
 
 例えば、メイヤー/Meyerという注解者の説明を抄訳します。

 
すべての信者に守護天使がいるという信条は、バビロン捕囚以降に発展した旧約聖書の概念で、神は天使を用いて神の民の世話をする(God exercised His care over His people through angelic instrumentality)というものである。この概念は、この箇所(マタイ1810)でイエスにより確かなものとされている(使徒1215参照)。


使徒12:15 
彼らは、「あなたは気が狂っているのだ。」と言ったが、彼女は本当だと言い張った。そこで彼らは、「それは彼の御使いだ。」と言っていた。
 
 
 次に、The IVP Bible Background Commentary: New Testamentには、次のように書かれています(P93)。
 

ユダヤ人の読者であれば、この箇所(マタイ1810)を守護天使の概念として認識するはずである。一般的に、すべてのユダヤ人には、守護天使がいると信じられていた。
 
 
 またエリコットという注解者は、この概念を支持する聖書箇所として、以下の箇所を挙げています。
 
 
詩篇34:7 
主の使いは主を恐れる者の回りに陣を張り、彼らを助け出される。
 
詩篇91:11 
まことに主は、あなたのために、御使いたちに命じて、すべての道で、あなたを守るようにされる。
 
へブル1:14 
御使いはみな、仕える霊であって、救いの相続者となる人々に仕えるため遣わされたのではありませんか。
 
 
 別の注解書は、上記の箇所に加えて、次の箇所も挙げています。
 
 
ルカ15:10 
あなたがたに言いますが、それと同じように、ひとりの罪人が悔い改めるなら、神の御使いたちに喜びがわき起こるのです。
 
 
反論
 
 一方、守護天使の概念に疑問を投げ掛けているサイトもありますので、一部を貼り付けます。
 
マタイ18:10に戻れば、「彼らの」ということばはギリシャ語の集合代名詞であって、一般的に天使が信者に奉仕しているという事実を指しています。
 
これらの天使たちは「いつも」神の御顔を見ていて、必要なときに信者を助けるために下される神の命令に耳を傾けていると描写されています。
 
この箇所に出てくる天使たちは、ひとりひとりの人を守護しているというよりは、天で父なる神に注意深く耳を傾けているようです。
 
 
 
あとがき
 
 どう受け取るかについては、読者の皆さんに委ねます。
 
 私たちクリスチャンには、守護天使がいるかもしれませんし、いないかもしれません。
 
 重要なのは、神ご自身に信頼することだと思います。
 
 どのみち、天使に指示を出しているのは神ご自身ですから。