ダビデの日記

自分が学んだ聖書の教えに関するブログ

杖は持って行くべきか、持って行ってはいけないのか? マルコ6:8とマタイ10:10


 新約聖書の「聖書の現象」に進みたいと思います。
 
聖書の現象」というのは、キリスト教進歩主義やリベラルから「聖書の矛盾」として批判される聖書箇所のことを言います。
 
 
マルコ6:8~9
旅のためには、杖一本のほかは、何も持って行ってはいけません。パンも、袋も、胴巻きに金も持って行ってはいけません。くつは、はきなさい。しかし二枚の下着を着てはいけません。
 
マタイ10:9~10
胴巻に金貨や銀貨や銅貨を入れてはいけません。旅行用の袋も、二枚目の下着もくつも、杖も持たずに行きなさい。働く者が食べ物を与えられるのは当然だからです。
 
ルカ9:3 
旅のために何も持って行かないようにしなさい。杖も、袋も、パンも、金も。また下着も、二枚は、いりません
 
 
 上記の箇所を見ると、主イエスは、マルコの箇所では、旅に杖を持って行くことを許可していますが、マタイとルカのほうでは禁じています。
 
 また、マルコでは、靴を履くように命じていますが、マタイでは、靴を持っていくなと命じています。
 
 この食い違いをどう理解すればよいのでしょうか?
 
 以下に、簡潔な説明と詳細な説明を用意しました。
 
 
解決案(簡潔な説明)
 
 Defending Inerrancyには、次のように書かれています。
 
 詳細に考察することによって明らかになるのは、次のことである。
 
 マルコでは一本の杖以外は何も持っていくなと命じられている。杖は、一般的に旅行者が常時携帯していたものだ。
 
 一方、マタイでは、もう一本の杖を持って行かないよう命じられている。それゆえ、これらの箇所には何の食い違いもない。
 
 マルコの箇所が言っているのは、弟子たちがすでに持っている杖(1本)は、持って行ってもよいということであり、マタイの箇所が言っているのは、余分な杖や下着を持って行くなということである。
 
 サード・ミレニアム・ミニストリーズ(英語)でも、上記とほぼ同じ回答が書かれています。
 
 
Defending Inerrancyは、ノーマン・ガイスラー博士が編集主幹を務める聖書の無誤性を主張する団体です。ガイスラー博士は「聖書の無誤性に関するシカゴ声明」の中心的編集者でもありました。
 
 
詳細な説明
 
 Apologetics Presshttp://christianthinktank.com/nostaff.htmlを参考にして、ギリシャ語のワードスタディーを含めて解説します。
 
 初めに、マルコとルカの箇所で「持って行く」と訳されているのは、airo/アイローという動詞です。
 
 アイローの原義は、「拾い上げて運ぶ」ですから、マルコとルカの箇所の日本語訳に特に問題はありません。
 
 訳文に問題があるのはマタイの箇所です。

☆ ☆ ☆

 
①まず「胴巻き」と訳されているzoneゾーネーには、「財布、金入れ」という意味があります。

 ですから、帯と同時に金入れの意味を持つ「胴巻き」という訳語は適訳です。
 
②次に、新改訳のマタイ109に「胴巻に金貨や銀貨や銅貨を入れてはいけません」と訳しているのは、胴巻きに使われている前置詞eis/エイスの原義が「~の中に」だからです。
 
 エイスは動詞ではなく前置詞ですが、「中に入れる」という動作を表現するため、動詞のように訳すことは適しています。
 
③問題は、マタイ109に使われているktaomaiクタオマイという動詞が正しく訳されていないことです。
 
 クタオマイの意味は、「(努力して)手に入れる、勝ち取る、得る、購入する、買う、所有する、支配・制圧する」です。
 
 ESV(英語標準訳)やNASB(新米標準訳)は、クタオマイの意味をしっかり訳出しています。(acquireは努力して手に入れるという意味)
 
ESV
Acquire no gold or silver or copper for your belts, no bag for your journey, or two tunics or sandals or a staff, for the laborer deserves his food.
 
NASB
Do not acquire gold, or silver, or copper for your money belts, or a bag for your journey, or even two coats, or sandals, or a staff;
 
日本語訳
胴巻きのために金貨、銀貨、銅貨を手に入れてはいけません。旅行用の袋や二枚の下着、履物(複数)、杖(単数)のためにも(金貨、銀貨、銅貨を手に入れてはいけません)。
 
 
 新改訳では、クタオマイが「持って行く」と訳されています(他の日本語訳も同じ)。
 
 クタオマイは、新約聖書で7回使われていますが、「持って行く」とか「運ぶ」という意味で使われている箇所はまったくありません。
 
 以下はクタオマイが使われている聖書箇所です(マタイの箇所以外)。
 
ルカ1812「自分の受けるものはみな」
ルカ2119「自分のいのちを勝ち取ることができます」
使徒118「不正なことをして得た報酬で」
使徒820「あなたは金で神の賜物を手に入れようと思っている」
使徒2228「私はたくさんの金を出して、この市民権を買ったのだ。」
1テサロニケ44「からだを、聖く、また尊く保ち」(直:聖さの内に体を所有する)
 
 
結論 
 
 以上のワードスタディーから、マタイの箇所におけるクタオマイは、ESVNASBのような意味で訳すことが正しいと考えられます。
 
 ワードスタディー①、②、③を総合してマタイ10910を解釈すると、次のようになります。
 
胴巻きのために金貨、銀貨、銅貨をわざわざ手に入れ(その中に入れて)はいけません。旅行用の袋や二枚の下着、履物(複数)、杖(単数)のためにも(金貨、銀貨、銅貨を手に入れてはいけません)。
 
☆ ☆ ☆

 
 つまりマタイの箇所は、下着や履物、杖などを余分に購入するためのお金を手に入れ、胴巻きの中に入れることを禁じていることになります。
 
 主イエスは、すでに持っている杖はそのまま持って行くことを許可し(マルコ68前半)、

 余分なもの、つまり旅行用の袋、替えの下着や履物、杖などを持って行くな、あるいは購入するなと命じているのです。
 
 これは、マルコの箇所全体と整合します。
 
マルコ6:89
旅のためには、杖一本のほかは、何も持って行ってはいけません。パンも、袋も、胴巻きに金も持って行ってはいけません。くつは、はきなさい。しかし二枚の下着を着てはいけません。

 
 そしてルカの箇所は、マタイとマルコの箇所の要約のような表現になっています。
 
ルカ9:3 
旅のために何も持って行かないようにしなさい。杖も、袋も、パンも、金も。また下着も、二枚は、いりません。
 
 
 そういうわけで、これら3カ所は矛盾しておらず、混乱が生じたのは翻訳の問題だったということになります。
 
 終わり